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アル=マンスール2世ムハンマド

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アル=マンスールの依頼によって製作された大理石製の洗面器。(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

アル=マンスール2世ムハンマドとは、アイユーブ朝マムルーク朝の領主であり、1244年から1284年にかけてシリアハマーを統治していた。アイユーブ朝の創始者であるサラーフッディーン(サラディン)の兄弟シャーハンシャーの玄孫にあたる。

アイユーブ朝のスルターンであるアッ=サーリフが権力を強化していた時期に、アル=マンスールはハマーのアイユーブ家の当主となった。1247年の春にアッ=サーリフはシリアを巡行し、アル=マンスール、ホムスの領主であるアル=アシュラフ・ムーサーと対面した。アル=マンスールは12歳、アル=アシュラフは18歳と二人とも若年であり、領地を相続したばかりだった[1]。アッ=サーリフは競争相手であるアレッポのアン=ナースィル・ユースフと戦い、1249年に十字軍の進攻にに対応するため、エジプトに帰還した。エジプトに帰国して間もなく、アッ=サーリフは没する[2]。アッ=サーリフの子アル=ムアッザム・トゥーラーン・シャーがスルターンの地位を継承するが、彼の政権は短命に終わり、1250年にアイユーブ朝に代わってマムルーク朝政権がエジプトに成立した。

モンゴルの脅威

エジプトにおける政変の結果、アレッポのアン=ナースィルがアイユーブ家の主導権を握り、アル=マンスールは他のアイユーブ家の王侯とともに、彼がエジプト侵攻のために招集した軍団に加わった。アイユーブ朝軍はカイロ郊外のサーリヒーヤで大敗し、その後の数年間にマムルーク朝はパレスチナとシリア南部に勢力を拡大していった。マムルーク朝の成立と同時期に、東方のモンゴル帝国の進出が中東諸国の深刻な脅威となり、1258年にモンゴル軍はアッバース朝の首都バグダードを占領した[3]。1259年9月にフレグはシリア遠征を開始し、モンゴルの攻撃に際してアル=マンスールはハマーの守備を宦官のムルシードに委ね、ダマスカスに移動した[4]。1260年1月にモンゴル軍はアレッポを包囲し、アレッポの司令官はフレグの交付勧告を拒絶したが、7日間の包囲の後にアレッポは陥落し、町は略奪に晒された[5]。アレッポの陥落後、ムルシードも町を脱出してダマスカスに逃れ、残されたハマーの住民はフレグに降伏を申し入れた[6]。フレグは町の助命に同意し、ホスローシャーというペルシア人の官吏を代官として派遣し、フレグの命令でハマーのシタデル(城塞)は破壊された[7]

アレッポ陥落の報告がダマスカスにもたらされると、アン=ナースィルはアル=マンスールや少数の部下を伴ってエジプトに向かい、マムルーク朝のスルターン・クトゥズに支援を求めた[8]。しかし、アン=ナースィルはクトゥズの陣営に近づくにつれて、不信感を抱くようになっていった。南に進むモンゴル軍と北に進むマムルーク軍に挟まれ、彼は家族をアル=マンスールに託し、軍の指揮権を彼に委譲し、クトゥズの陣営に参加するよう指示した。アン=ナースィル自身は少数の従者を連れてカラクに向かったが、移動中にモンゴル軍に捕らえられ、フレグの元に移送された[9]

マムルーク朝への従属

脚注

参考文献

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