アレクサンダー・ダラス (政治家)

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アレクサンダー・ジェイムズ・ダラス

アレクサンダー・ジェイムズ・ダラスAlexander James Dallas, 1759年6月21日 - 1817年1月16日)は、ジェームズ・マディソン大統領の下で財務長官を務めたアメリカ合衆国政治家

1759年、ダラスはジャマイカの首都キングストンにおいて、ロバート・ダラスサラ・ヒューイットの息子として誕生した。1764年、ダラス一家は父親の故郷であるイギリスのエディンバラへ渡り、間もなくロンドンに移り住んだ。ダラスは家庭教師ジェイムズ・エルフィンストンの下で学び、その後法律の専門的勉強を志したが、金銭的事情から大学へ進むことは叶わなかった。

弁護士時代

1780年、ダラスはペンシルベニア州出身の女性アラベラ・スミスと結婚し、翌1781年に生まれ故郷のジャマイカへと移り住んだ。そして同年、ダラスは父親のロバートを通じて弁護士の認可を受け、法廷での活動を開始した。1783年、ダラスの妻の健康状態が悪くなったため、妻の故郷であるペンシルベニア州のフィラデルフィアに居を移し、妻の体調の回復を図った。1785年、ダラスはペンシルベニア州でも弁護士の認可を受けたことから、法廷での活動を再開した。そしてその一方で、1787年から1788年までペンシルベニア・ヘラルド紙の編集者を、また1787年から1789年までコロンビアン・マガジン誌の編集者を務めた。

アメリカ合衆国最高裁判所判例編纂官

1790年、フィラデルフィアにアメリカ合衆国最高裁判所が設立された際、ダラスは初代判例編纂官として最高裁判所に入った。当時、判例編纂官の地位は非公式なものであったことから、ダラスは私財を投じて仕事を行った。しかしながらダラスの仕事は不完全で、不正確で、しかも極めて遅々としたものであったため、大きな非難を浴びた。ダラスは1790年に判例編纂官の仕事を降ろされた。ダラスは10年間でわずか4巻の判例集を発行しただけであった。

ペンシルベニア州州務長官

1791年、ダラスはアメリカ哲学協会の会員となり、ペンシルベニア大学の理事に就任した。また同年、ダラスはペンシルベニア州知事トマス・ミフリンから州務長官に任命された。ミフリンは大の酒好きであり、日中も酒を飲み続けていたため、ダラスは事実上の州知事として1801年まで州務長官を務めた。その後ペンシルベニア州において民主共和党の設立を支援したダラスは、新憲法の厳格解釈を提唱した。

アメリカ合衆国財務長官

命名

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