アレクサンドリア十字軍
From Wikipedia, the free encyclopedia
| アレクサンドリア十字軍 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 十字軍中 | |||||||
| |||||||
| 衝突した勢力 | |||||||
|
キプロス王国 ヴェネツィア共和国 聖ヨハネ騎士団 | マムルーク朝 | ||||||
| 指揮官 | |||||||
| ピエール1世 |
アシュラフ・シャーバーン Yalbugha al-Umari | ||||||
| 戦力 | |||||||
| 165隻 | 不明 | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 不明 |
死亡 20,000人[1] 奴隷化 5000人[1] | ||||||
アレクサンドリア十字軍(アレクサンドリアじゅうじぐん)は、1365年10月にエジプトのアレクサンドリアを短期間占領した十字軍。 アレクサンドリアの奪取(英語: Sack of Alexandria)とも呼ばれる[2]。指導者はキプロス王ピエール1世で、ヴェネツィア共和国や聖ヨハネ騎士団の支援を受けていた。第10回十字軍と呼ばれることもあるが、以前の「聖地奪還」を目的とした十字軍と異なり、多分に経済的な動機によるものであった[3]。
1362年から1365年にかけて、ピエール1世は十字軍遠征のために軍を集め、各国宮廷に金銭支援を打診してきた。エジプトのマムルーク朝がキプロス島遠征を計画していることを知ったピエール1世は、それまでトルコ人に対して用いて成功してきた先制攻撃戦略をエジプト方面にも用いることにした。ヴェネツィア共和国が海軍を提供し、十字軍戦士たちはロドス島に集結してロドス騎士団(聖ヨハネ騎士団)と合流した。
1365年10月、ピエール1世はロドス島を出発した。その船団は165隻を数えたが、それはヴェネツィアの政治的な影響力あってのものだった。10月9日、十字軍はアレクサンドリアに上陸し、3日間街を略奪し、数千人の住民を殺害し、5000人を奴隷とした[1]。モスクや寺院、教会、図書館などもこの間に焼かれた[4][5]。
しかし、マムルーク朝の本軍に対する防衛体制を築くことができないと判断した十字軍は、10月12日にアレクサンドリアから撤退した[3]。ピエール1世としてはアレクサンドリアにとどまり、ここを今後のエジプトに対する十字軍の拠点としたかったのだが、大部分の家臣は略奪に満足してキプロスへの帰還を主張したのである。ピエール1世自身は最後までアレクサンドリアに残り、マムルーク兵が街に入ったのを見届けてから船に乗り込んだ。ヨーロッパの王侯は、アレクサンドリアの十字軍の中でただピエール1世だけが真の十字軍戦士だったと評した[6]。