旧オスマン帝国領内のギリシア人コミュニティで生まれた。祖父の Demosthenis Issigonis は1830年代にこの地に移民としてやってきて、イギリス政府によるトルコ国鉄の建設工事に従事、その功績でイギリス国籍を取得した。アレックの父に当たる1872年生まれのコンスタンティンはイギリスで教育を受け、ドイツ系の Hulda Prokopp と結婚した。
1922年、コンスタンティン一家は希土戦争勃発を前に故郷から避難、コンスタンティンは同年死去したが、母の Hulda と息子のアレグザンダー(アレック)は翌1923年からイギリスに定住した。彼はサリー大学 Battersea Polytechnic で技術を学んだが数学のテストに三度も落第、以後彼は数学を「すべての創造的な天才達の敵」と呼んで毛嫌いした。同校卒業後はロンドン大学の学外プログラムを終了して大学卒業の資格を得た。
イシゴニスは卒業後、英国の中高級車メーカー、ハンバーに技師として入社し、自動車業界でのキャリアをスタートさせた。1930年代から1940年代にはスーパーチャージャーでチューンしたオースチン・7ベースのレーシングカーを自作し、レースで活躍した。彼はエンジンのみならず、後にはフロントサスペンションも改造して注目された。
1936年にはモーリスに移籍し、モーリス・テンのための前輪独立懸架の設計を担当した。このサスペンションの生産化は第二次世界大戦によって実現しなかったが、戦後のMG・Yタイプで用いられた。
趣味のオースチン・7ベースのレーシングカー製作も続けており、1939年にはベニヤ合板をはさんだアルミニウム製の車体、前輪トレーリングアーム・後輪スイングアクスルに、後にミニにも採用される「ラバースプリング」を組み合わせたサスペンションを持つ、個性的なデザインスペシャルを製作した。車両重量は僅か587ポンド(266 kg)に過ぎず、そのうち、半分近い252ポンドはエンジンの重量であった。イシゴニスが在籍していたモーリスはオースチンのライバルメーカーであったが、オースチンはこのマシン用にエンジンを供給、イシゴニスは本来の750 ccクラスではもちろんのこと、1,100 ccクラスでもしばしば勝利を収めた。
戦時中はモーリスにおいて大戦の終結後に向けた様々な開発プロジェクトに従事したが、特に成功作となったのは「Mosquito(蚊)」というコードネームで呼ばれた、後の「マイナー(英語版)」であった。
1952年にモーリスとオースチンが合併してブリティッシュ・モーター・コーポレーション(British Motor Corporation; BMC)となると、彼は一旦モーリスを退社して高級車メーカーのアルヴィスに移籍[1]、ここで総アルミ製V型8気筒エンジン、4輪関連独立サスペンションを持つ進歩的なセダンを設計したが、既に社運が傾いていたアルヴィスはこれを生産化することができなかった。
1955年、イシゴニスはBMC会長のサー・レナード・ロード(英語版)(後の初代ランバリー男爵)によって同社に呼び戻され、BMC合併後の主要生産車種となる3種類の乗用車の設計を命じられた。一つは「XC(experimental carの略)/9001」というコードネームで呼ばれた大型車、二つ目は「XC/9002」と呼ばれた中間サイズのファミリーカー、そして最後が「XC/9003」という小型のタウンカーであった。1956年にかけて、イシゴニスは最初の2種類の設計を優先し、プロトタイプの試験を行っていた。
ところが1956年末、第二次中東戦争(スエズ動乱)が勃発、イギリス国内ではガソリンが欠乏して配給制度が布かれた。レナード・ロードはイシゴニスにXC/9003の開発を最優先にするよう命じた。9003のプロトタイプは1957年初頭に完成、1959年8月に「モーリス・ミニ・マイナー」「オースチン・セヴン」として市販化された。これがイシゴニスの代表作となったミニ(BMC・ADO15)である。
1961年、ミニの成功により、イシゴニスはBMCのテクニカル・ディレクターに昇格、翌1962年8月にはXC/9002がBMC・ADO16(モーリス・1100)として市販化された。XC/9001の登場は最後になり、1964年10月にBMC・ADO17(オースチン・1800)としてようやく陽の目を見た。
イシゴニスは1967年、王立協会の会員となり[2]、1964年に大英帝国勲章コマンダー(CBE)を受勲[3]、1969年にはナイトの称号を授けられた[4][5]。彼は今日ミニの設計者として最も著名であるが、本人はモーリス・マイナー(英語版)の設計に参画したことこそが、上級車の快適性や利便性を勤労階級の手の届く価格の大衆車に盛り込んだという意味で最も誇らしいと考えていた。マイナーと比較するとミニはすべてを最低限までカットしたスパルタンな自動車であると言う。
イシゴニスは1971年に、企業合同を重ねてBLMCと呼ばれるようになった会社を引退、技術コンサルティング会社を死去の直前まで経営した。