アントウェルペン包囲戦 (1832年)

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アントウェルペン包囲戦

アントウェルペン包囲戦英語版オラース・ヴェルネ作、1840年。
戦争ベルギー独立革命
年月日1832年11月15日 - 12月23日
場所ベルギー王国アントウェルペン
結果:フランスの勝利[1]
交戦勢力
フランスの旗 フランス王国
援助国:
ベルギーの旗 ベルギー王国
オランダの旗 オランダ王国
指導者・指揮官
フランスの旗 エティエンヌ・モーリス・ジェラール[1]
フランスの旗 フランソワ・ニコラ・ベノワ・アクソ英語版
オランダの旗 ダヴィッド・ヘンドリック・シャッセ英語版[1]
戦力
4,500[1]
損害
戦死370[2] 戦死560[2]
アントウェルペン包囲戦におけるフランス工兵隊、エドゥアール・デタイユ作、1885年。
フランス軍に占領されたアントウェルペン城、大フェルディナント・デ・ブレケレーア英語版作。

アントウェルペン包囲戦(アントウェルペンほういせん、英語: Siege of Antwerp)は、ベルギー独立革命が集結した直後に行われた戦闘。1832年11月15日エティエンヌ・モーリス・ジェラール元帥率いるフランス王国北方軍英語版ダヴィッド・ヘンドリック・シャッセ英語版率いるオランダ軍の駐留するアントウェルペンを包囲した。包囲戦は12月23日に終結した。フランスはベルギー反乱軍が参戦しないことでベルギーと合意していた[1]

フランス軍が1831年の十日戦争に介入した後、オランダ軍はベルギーから撤退したがアントウェルペン城英語版に駐留軍を配置、そこから町を砲撃した。それにより、ジェラール元帥率いる北方軍がベルギーに戻り、1832年11月15日にアントウェルペンを包囲した。

オランダの将軍でナポレオン・ボナパルトの元部下であるシャッセは焼玉式焼夷弾でアントウェルペンの町を砲撃、家屋数百軒を炎上させて多くの平民が死傷した。これにより、それまで戦闘に関わらなかったベルギー義勇兵が介入した。一方、編成と装備が整ったベルギー軍はアントウェルペンの北にあるスヘルデ川の堤防を守備、オランダ軍が堤防を破壊するのを防いだ。

包囲

ヴォーバン式の要塞を包囲する戦術は対壕と平行壕しかなく、防御工事が突破されたら守備側が降伏するのが常だった。北方軍はアントウェルペンの包囲に大型の臼砲を使用、要塞の上から砲弾を撃ち込んだ。北方軍と攻城戦の専門家であるフランソワ・ニコラ・ベノワ・アクソ英語版男爵は24日間かけて城を落とし、ベルギーに返還した。

記念

脚注

参考文献

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