アントニオ・フェリーニョ
From Wikipedia, the free encyclopedia
イタリア南部のマイオーリで生まれた。ナポリの画家ジャコモ・ディ・キリコの工房で学び、奨学金を得てナポリ美術アカデミーでスタニスラオ・リスタ(Stanislao Lista)やテオフィロ・パティーニ(Teofilo Patini)に学んだ.[1]。1885年にアデミーを卒業する前の1882年に展覧会に出展し、シチリアの名門貴族のフィランジェーリ家(Filangieri)やナポリ銀行から注文を受けるようになり、1890年にはイタリア国王ウンベルト1世に作品を買い上げられた[2]。
1893年にブラジルに移り、1880年代後半にブラジルに渡って成功していたイタリア人画家ロザルビーノ・サントロ(Rosalbino Santoro: 1858-c.1920) と働いた。ブラジルで12年間過ごし、裕福なコーヒー農園経営者から依頼されて、プランテーションの風景を描いた[1]。1900年にはパリでコーヒーの消費促進キャンペーンの機会に大規模な作品展が開かれた。
1900年から1904年の間は、エスピリトサント州のヴィトーリアやサンパウロ州のサンタ・ゲルトルデス(Santa Gertrudes)といったコーヒー産業にとって重要な地域にも長く滞在した。コーヒー産業関連の絵画の大規模な展示は、1904年のセントルイス万国博覧会で成功を収めた。
1905年にブラジルで最後の展覧会を開いた後、イタリアに戻り、南イタリアのサレルノに住んだ。1913年から工業学校の絵画教師も務めた[2]。ガエターノ・カポーネ(Gaetano Capone)やルイジ・パオリージョ(Luigi Paolillo)、ピエトロ・スコペッタ(Pietro Scoppetta)といったマイオーリの海岸を描いた画家のグループ「マイオーリ派(Scuola di Maiori)」のメンバーであった。パリのアンデパンダン展にしばしば出展した。
1940年に、サレルノで亡くなった。
フェリーニョのブラジルで描いた絵画は1888年にブラジルで奴隷制廃止の法案「Lei Áurea」が施行された後の時代を描いていて、プランテーションの肉体労働の多くをイタリア系移民が担っていた時代の歴史的資料としての価値も認められたいる。フェリーニョがブラジルを離れた100年後2005年にサンパウロ州立美術館(Pinacoteca do Estado de São Paulo)で大規模な回顧展が開かれた。