アントニ・ピオトロフスキー
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ポーランド、シフィェンティクシシュ県のクヌフ(Kunów) の役人の息子に生まれた。1869年からワルシャワで、ヴォイチェフ・ゲルソンに絵を学んだ後、1875年にミュンヘンに移り、ヴィルヘルム・リンデンシュミットに学び、その後、1879年までクラクフの美術学校でヤン・マテイコに学んだ。
1879年にブルガリアに移り、ブルガリアでロンドンの絵入り新聞「グラフィック(The Graphic)」や「イラストレイテド・ロンドン・ニュース」の特派員、イラストレーターになり、フランスの新聞、「イリュストラシオン」や「ル・モンド・イリュストレ」のためにも働くようになった。1885年にパリに戻るが、1885年にセルビア・ブルガリア戦争が始まると、ブルガリア軍に義勇兵として参加し、ブルガリア公国から功労章を受勲した[3]。ブルガリア軍に従軍中に多くの戦争画を描き、後にそれらの作品はブルガリア政府に買い上げられ、現在ソフィアの国立軍事史博物館に収蔵されている。ヨーロッパの各地の新聞にもピオトロフスキの絵は掲載された。
1888年にブルガリア公アレクサンダルの肖像画を描いた[4]。バタクを訪れ、1876年にバタクで、オスマン帝国の非正規兵バシ・ボズクによって引き起こされた虐殺事件、「バタクの虐殺」を描くための準備をした[5]。1892年にこの作品はブルガリア、プロヴディフで開かれた勧業博覧会に展示され、賞をえた。
1900年にポーランドに戻り、ワルシャワに住んだ。1905年に日露戦争の従軍記者として満州で働いた。ワルシャワで没した。