パリ生まれ。ナポレオン戦争の初期にイギリス軍に捕まり、オーストリア軍に引き渡されてハンガリーのブダで3年間の捕虜生活を送る。その間に、脱走の目的でパラシュートを構想した[1]。
解放されると、熱気球の飛行に熱中した。1790年に自ら製作した熱気球で飛行。1797年10月22日、パリにて、絹製のパラシュートを使い約900mの高度にある気球から初めて飛び降りた[2]。着地時には衝撃があったものの、当人は無傷であった。ただし彼のパラシュートは頂部に穴がなかったので、気流の流れによって危険な横揺れをおこした。当然、着地した彼は気分が悪かったという。天文学者ジェローム・ラランドの助言により改良が行われた[3]。妻のジャンヌ=ジュヌヴィエーヴ・ガルヌランや姪のエリザも落下傘での降下を体験した[4]。ジャンヌはパラシュート降下をした史上初の女性である。
1797年の初降下以降、各国はこぞってパラシュートの改良を行い、実験のわずか5年後の1802年には、ガルヌランが2400mからの落下に成功している[5]。
ガルヌラン夫婦はアミアンの和約による平和期(1802年)にイングランドに赴き、ロンドンでパラシュート降下を実演している。この行為は以下のようなバラッドに詠われた。
| 「 |
- Bold Garnerin went up(大胆なガルヌランは上がって行き)
- Which increased his Repute(それで評判も上がった)
- And came safe to earth(そして着地も安全だ)
- In his Grand Parachute(立派なパラシュートがあるから)
|
」 |
—作詞者名不詳([6]
より) |
同年7月5日には水彩画家エドワード・H・ロッカー(英語版)を同乗させて飛行。しかし仏・英関係が悪化したため帰国した。ガルヌランは気球による長距離飛行も行なっている。1803年10月3日から4日にかけ、モスクワ=ポローヴァ(Polova)間の300kmを飛行。1807年11月22日から翌日にかけてはパリからクラウゼン(Clausen;ルクセンブルクの一部)の395kmを飛行した。その後パリで新しい気球を作っている際、現場の事故で(梁に打たれて)死亡した。