アーサー・ヒル=トレヴァー (第3代ダンガノン子爵)

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第3代ダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァーArthur Hill-Trevor, 3rd Viscount Dungannon FSA1798年11月9日1862年8月11日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族庶民院議員とアイルランド貴族代表議員を務めた[1]トーリー党右翼であるウルトラ・トーリー英語版に属し、第1回選挙法改正(1832年)、1835年地方自治体法英語版1857年婚姻事件法英語版のいずれにも反対した[2]

第2代ダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァーと妻シャーロット(1767年7月3日 – 1828年11月22日、初代サウサンプトン男爵チャールズ・フィッツロイ英語版の娘)の息子として、1798年11月9日にロンドンバークリー・スクエア英語版で生まれた[1]。1812年から1817年までハーロー校で教育を受けた後[3]、1817年10月17日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1820年にB.A.、1825年にM.A.の学位を修得した[4]。1827年に初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー北イングランドを遊歴したとき、ヒル=トレヴァーはその取り巻きの1人だった[3]。1830年5月20日、ロンドン考古協会フェローに選出された[1]

ケンブリッジ大在学中に知り合った友人である第8代準男爵サー・ロジャー・グレスリー英語版ウルトラ・トーリー英語版に属し、1830年イギリス総選挙ダラム選挙区英語版から出馬して庶民院議員に当選した[3]。ヒル=トレヴァーは友人への助力としてロンドンにいる有権者の統率に協力、自身もサッドベリー選挙区英語版からの出馬を模索したが、結局はニュー・ロムニー選挙区英語版で影響力を有する第8代準男爵サー・エドワード・デリング英語版から議席を購入した[3]

庶民院ではグレスリーと同じくウルトラ・トーリーに属し、1830年11月23日に初演説した[3]トーリー党の選挙対策者を務めるフランシス・ロバート・ボナム英語版は後にヒル=トレヴァーを「トーリー党右派の鉄砲玉の1人」と形容した[3]。1831年1月に『Letter to the Duke of Rutland』と題するパンフレットを出版して、第1回選挙法改正による変革の大きさから解散総選挙をすべきだと主張した[3]。同年3月に選挙申立によりグレスリーがダラムの議席を失うと、ヒル=トレヴァーは議員を辞任して、ニュー・ロムニーの議席をグレスリーに譲り、代わりにダラムの補欠選挙に出馬した[3]。ヒル=トレヴァーが出馬したのは、選挙申立の評決でグレスリーが補欠選挙の出馬を禁じられたためであり、ヒル=トレヴァーは第3代ロンドンデリー侯爵チャールズ・ヴェーンの支援を受けたものの470票(得票数2位)で落選した[5]。その6週間後に1831年イギリス総選挙が行われ、現職議員マイケル・アンジェロ・テイラー英語版が資金不足で選挙戦から撤退したため、ヒル=トレヴァーは無投票で当選した[5]

1831年の選挙では第1回選挙法改正の支持者が大勝したが、ヒル=トレヴァーは1831年6月の演説で「人々に考える時間があれば、選挙結果は変わったのであろう」と述べた[3]。1831年8月に選挙法改正に対する修正案を提出して、実際に選挙区に住んでいない自由市民(non-resident freemen)ですでに選挙権を得ていた者はその存命中のみ選挙権を維持すべきだと主張した[2]

1832年イギリス総選挙では383票(得票数3位)で落選したが、その後もダラムでの政治活動を続け、1835年イギリス総選挙で473票(得票数1位)を得て議員に返り咲いた[3][6]。3度目の議員期では1835年地方自治体法英語版を間接的に選挙権拡大を目指す政策として反対、1837年2月に庶民院議員の被選挙権の要件から所有不動産に関する条件を削除する法案に反対[2]同年の総選挙で465票(得票数1位)を得て再選した[6]

1837年12月14日に父が死去すると、ダンガノン子爵位を継承した[1]。これによりダウン県キルケニー県、クイーンズ・カウンティ(現リーシュ県)での領地を相続し、領地管理のために一時アイルランドに赴くになり、ダラムを放っておいたと批判されることとなった[3]1841年イギリス総選挙でダラムから出馬せずに議員を退任した後、1842年にシュロップシャー・ノース選挙区英語版からの出馬を検討したが、自身のシュロップシャーにおける領地が辺鄙すぎるとして諦めた[3]。1843年4月にダラム選挙区の補欠選挙に出馬して、507票対405票でジョン・ブライトを破ったが、選挙申立により選挙無効になり、7月の再選挙では不出馬となった[6]

1855年、フリントシャー州長官英語版を務めた[1]。1855年9月11日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1862年に死去するまで務めた[7]貴族院では1857年婚姻事件法英語版離婚制度を改革する法律)への反対の論陣を張り、1859年に第3代ウッドハウス男爵ジョン・ウッドハウスが提出した婚姻法改正案、1862年に初代エブリー男爵ロバート・グローヴナー英語版が提出した聖職者宣誓廃止法案にも反対した[2]

1862年8月11日にロンドンのグラフトン・ストリート(Grafton Street)3号で死去、後継者がおらず爵位は廃絶した[1]。遺産は妻が相続したが[3]、1880年に妻も死去すると、遺産は遠戚のエドウィン・ヒル卿が相続、エドウィンは「トレヴァー」を姓に加えたうえで1880年にトレヴァー男爵に叙された[1]

著作

家族

1821年9月10日、ソフィア・アーヴィン(Sophia Irvine、1880年3月21日没、ジョージス・マーカス・アーヴィンの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。結婚以降、2人は母方の祖父サウサンプトン男爵が所有していたウィットルベリー英語版の地所に住んだ[3]

出典

関連文献

外部リンク

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