アーティ・ベル
オートバイレーサー
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生涯
北アイルランドの首府、ベルファストの出身。父親はアーティがオートバイレースを始めることに反対しており、アーティのオートバイ(サンビーム社製の「モデル9」)を取り上げるほどだったが、これを押し切って10代から友人から借りたオートバイでレースを始めた。地方の小レースで腕を磨き、1938年にはノースウエスト200・北アイルランド戦で2位となり次第に頭角を現していく。
第二次世界大戦後は1939年製ノートンに乗り試合に出場、1946年のクックスタウン 100では時速76.6マイルのファーステストラップを記録した。また1947年のアルスターグランプリでは平均時速146km/h (91.25mph)・ファーステストラップ時の速度151.17km/h (94.79mph) で走破、2時間43分1秒のタイムで優勝した[2]。
1947年、アーティはノートンでマン島セニアTTに出場し、7周回中3ラップをリードする活躍を見せた。結果は2位に終わったものの中古の500ccマシンを駆るパフォーマンスで多くの関係者に知られることとなった[1]。同年のマン島TTレース後、翌シーズンを見据えたチーム・ノートンからワークス・ライダーとして迎えられる。1948年に出場したジュニアTTレースでは走破を果たせなかったものの、翌1949年のジュニアTTレースでは3位、さらにセニアTTでは優勝を果たした。
1949年、ロードレース世界選手権が初開催され、アーティもチーム・ノートンからエントリーした。マン島セニアTTレースを兼ねる第1戦での4位入賞を皮切りに、年間ランキング5位にも輝いた。1950年、ノートンは350ccジュニアレースと500ccセニアレースに合わせて傑作フレーム "Norton Featherbed"(「ノートンの羽毛ベッド」の意)を投入、これを得たアーティは開幕戦マン島TTで優勝を遂げ、また500ccでも2位に入る活躍を見せる[3]。さらに同年のオランダグランプリ、スイスグランプリでも好成績を残し、この年のロードレース世界選手権で500cc部門7位、350cc部門4位に入賞を果たした[4]。さらにこの年は自身3度目となるノースウエスト200への参戦を達成した。
しかし同1950年、レース中に先行するマシン同士の衝突に巻き込まれポストに激突、そのキャリアを終えることとなる。当該のクラッシュはベルギーのスパ・フランコルシャンで行われたベルギーグランプリ500ccレースで、先頭に立つカルロ・バンディローラをレスリー・グラハムやアーティらが追走する形の場面で発生した。この3人らの先頭集団がラ・ソース・ヘアピンに差し掛かった際、バンディローラのブレーキングがやや早めだったためか、グラハムのAJS "Porcupine" がバンディローラのジレラ後輪に追突、マシンが乗り上げた。グラハムは投げ出されたが、走行中のアーティが残されたマシンに突っ込み、転倒して絡まり合ったままラ・ソース・ヘアピンのポストに高速で激突した[5]。重傷を負ったアーティは一命こそ取り留めたが、よもやレースへの復帰は叶わず退いた。この年、彼は500cc年間7位、350cc年間4位にランクインした[6]。
1972年8月7日、アイルランド島北東部のアルスター地方ダウン県の自宅で世を去った。没後20年を経た1996年には、アイルランド郵便局発行の偉大なアイルランド人ライダーを集めた切手シリーズになっている。