アーネスト・カッセル

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サー・アーネスト・カッセル、アンデシュ・ソーン画、1906年

サー・アーネスト・ジョセフ・カッセル(Sir Ernest Joseph Cassel, GCB, GCMG, GCVO, PC, 1852年3月3日 - 1921年9月21日[1])は、ドイツ生まれのイギリス銀行家投資家

ユダヤ系高利貸しの息子としてケルンに生まれた。1869年に単身イギリスに渡り、リヴァプール穀物取引会社で働いた。超人的な業務処理能力と生まれ持ったビジネス感覚で頭角を現し、パリ銀行に務めるようになる。しかし1870年に普仏戦争が起きると、プロイセン王国領出身だったために敵国人扱いされ、ロンドンの銀行に移った。

カッセルはやがて自ら商取引を開始し、成功を収めた。カッセルの関心分野は鉱業、公共設備事業、重工業にあった。投資先として最初に関心を向けたのはトルコだったが、その後はスウェーデンアメリカ合衆国南アメリカ諸国、南アフリカエジプトが主な投資先となった。

カッセルはその当時の世界屈指の資産家の1人に数えられ、エドワード7世王、首相ハーバート・ヘンリー・アスキスウィンストン・チャーチルらの親しい友人となった。1878年にアネット・マクスウェル(Annette Mary Maud Maxwell)と結婚した[2]。夫妻の一人娘アメーリア・カッセル(Amalia Mary Maud Cassel, 1879年 - 1911年)は、初代マウント・テンプル男爵英語版ウィルフリッド・アシュリー英語版の夫人となった。

カッセルは妻の求めに従いカトリック信徒となったが、多くの点で自分をユダヤ人と認識していた。1902年の枢密院議員就任宣誓の際、カッセルがドゥエー=ランス聖書英語版を持参したために改宗が公になったが、この改宗は多くの上流階級を驚かせた[3]

カッセルは1910年に投資事業から引退した。彼は慈善事業に熱心に取り組み、教育事業に50万ポンドを、難病治療のために22万5000ポンドを、1911年に死んだ娘を記念してキング・エドワード病院財団(King Edward's Hospital Fund)に5万ポンドを提供し、第一次世界大戦中は英国赤十字社に莫大な寄付を行った。また1911年に友人のエドワード7世王を偲び、英独友好団体を創設し資金提供を行った[4]

カッセルは美術品を収集し、数多くの美しい邸宅を所有した。スイスの僻村リーダーアルプに建てたヴィラ・カッセル(Villa Cassel)は、特にお気に入りの別荘だった。またニューマーケットのモールトン放牧地(Moulton Paddocks)を所有して競走馬を育成した。

1921年に死去すると、2人の孫娘が遺産を相続した。遺産の大部分を相続した年長のエドウィナ・アシュリーは、イギリス王室の縁者であるルイス・マウントバッテン卿と結婚した。

カッセルの死去時、その資産は600万ポンドと見積もられた。これは2010年時点の資産価値に換算すると1億9700万ポンドに相当する額である。ただし、カッセルの死去当時は一時的に停止されていた金本位制に基づいて換算すると、600万ポンドは当時の相場で141万トロイオンスに兌換される。この重量の金は、2012年時点では15億ポンドの価値がある(1ポンド=1ソヴリン=0.2354トロイオンス)。

栄典

脚注

外部リンク

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