イスマーイール・ハーン
From Wikipedia, the free encyclopedia
| イスマーイール・ハーン | |
|---|---|
|
2010年 | |
| 生年月日 | 1946年(78 - 79歳) |
| 出生地 |
|
| 称号 | 大尉 |
| 在任期間 | 2004年 - 2013年10月 |
| 大統領 | ハーミド・カルザイ |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 |
2001年 - 2004年9月12日 1992年 - 1997年 |
ムハンマド・イスマーイール・ハーン (Mohammad Ismael Khan 1946年 - ) は、アフガニスタンの政治家、軍人。
かつてはアフガニスタンのムジャーヒディーン司令官、後にヘラート州知事、閣僚を歴任。「ヘラートのライオン」と渾名された。イスラム協会との関係が深い。タジク人。ファラー州シーンダンド出身[1]。イスマイル・ハーンと表記されることもある[1]。
1979年3月、アフガニスタン西部の都市ヘラートの陸軍少佐であったイスマーイール・ハーンは、ヘラートの守備隊を率いてロシア人政治顧問に対する反乱を起こした。タラキーの共産主義政権は直ちにこれに反応し、ソ連から提供された弾薬によってヘラート市を徹底的に破壊、1週間足らずで24,000人の民間人を殺傷した。この争乱は全国に拡大し、結果として1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻の口実を与えることになった。イスマーイール・ハーンは地方に潜伏し、ヘラート市民の広範な支持を得て[2]、反乱軍の組織を開始した。ソ連・アフガン戦争の過程で、ハーンはブルハーヌッディーン・ラッバーニーのイスラム協会の西部方面司令官となり、アフマド・シャー・マスードらと並んでもっとも高名なムジャーヒディーン司令官となった[3]。1992年、ソ連の撤退から2年後、ムジャーヒディーンはヘラートを攻略し、現地部族と野戦指揮官の集会 (ジルガ) によって、イスマーイール・ハーンはヘラートの知事に選出された。
ターリバーンへの抵抗
1995年、イスマーイール・ハーンはマスードと協力してヘラートをターリバーンから防衛することに成功し、ターリバーンの本拠地カンダハールに攻撃を仕掛けすらした。その後、イスラム協会の友軍だったウズベク人のドスタム将軍がターリバーンに寝返り、ヘラートを攻撃した。イスマーイール・ハーンは8,000人の配下とともにイランに逃れざるを得ず、ヘラートは陥落した。その2年後、ファーリヤーブ州でターリバーンに対する抵抗運動を組織中、イスマーイール・ハーンはかつてのドスタム将軍の属将で、当時タリバンに身を投じていたアブドゥル・マリク将軍に謀られ捕われてしまう[3]。その後、1999年3月に脱獄を果たすまで、彼はカンダハールの監獄に繋がれた。アメリカのアフガニスタン侵攻の間、北部同盟の一員として、イスマーイール・ハーンはターリバーンと戦闘を繰り広げた。2001年11月、部隊はヘラートを奪還し、ハーンはヘラートの知事の座に返り咲いた。