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イベリアのアンティム

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生誕 17世紀半ば
列聖日 1992年
イベリアのアンティム
ანთიმოზ ივერიელი
Antim Ivireanul
アンティム修道院(英語版)にあるモザイク画
生誕 17世紀半ば
死没 1716年9月14日
崇敬する教派 ルーマニア正教会
グルジア正教会
列聖日 1992年
列聖場所 ブカレスト
列聖決定者 ルーマニア正教会の聖シノド
記念日 9月14日(ルーマニア正教会)
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イベリアのアンティム(聖アンティモス、ルーマニア語: Antim Ivireanul, グルジア語: ანთიმოზ ივერიელი、17世紀半ば - 1716年9月14日)は、ルーマニアの神学者、また芸術家であり、ルーマニア教史における大立者である[1]。

この時代における最も教養ある人物の一人であり、ギリシャ語、ルーマニア語、古代スラブ語をはじめとして数多くの言語を操ることができ、また、神学、文学、自然科学に精通し、さらに芸術家でもあった[2]。とりわけグルジアのカリグラフィーによって知られる[2]。

1650年[3]-1660年頃にイベリア王国(現在のジョージア)で生まれる[1][4]。洗礼名はアンドリア(Andria)[2]。強盗に襲われて奴隷として売られたのちにドシセオス2世の労によって自由の身となるが、ドシセオスに仕えるためにその地に留まる[2]。1691年頃、ワラキア(現在のルーマニア)の公コンスタンティン・ブルィンコヴェアヌ(英語版)の招きによってワラキア公国に赴き、ブカレストで印刷所の新設を命じられる[2]。

1694年にはスナゴヴ(英語版)修道院の修道院長、1705年にはルムニク・ヴルチャの主教となった[1][2]。1708年に大主教に任じられ、1715年にニコラス・マヴロコルダトス(英語版)によって大主教を解任されるまでワラキアの自由のために精力的に活動を続けた[5][2]。アンティムの指揮によってワラキアに建設された教会や修道院は20を超える[2]。マヴロコルダトスにより追放されたアンティムは1716年に殺される[2]。アンティムの死後、彼がまだ大主教であった1715年にブカレストに建立された修道院は、アンティムを称えてアンティム修道院(英語版)と名付けられた[4]。

1992年、ルーマニア正教会はアンティムを列聖し、忌日である9月14日をその記念日に制定した[2]。

脚注

ギャラリー

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