イワン・ポキトノフ
From Wikipedia, the free encyclopedia
現ウクライナ、ヘルソン県の村Motrono-Andrijiwkaに生まれた[2]。父親は軍人で先祖には軍功により貴族の称号を得た人物がいて、母親はセルビア人であった。両親の領地で家庭教師から教育を受け、幼いころから絵を描くのを好んだ。
地元の寄宿学校で学び、ポルタヴァで士官候補生として軍事訓練を受けるが、1年で中退した。ムィコラーイウの高校に移ると画家になるミコラ・クズネツォフ(Nikolai Dmitriyevich Kuznetsov: 1850-1929)と親しくなった。1868年にモスクワの学校に移るが、翌年には革命組織への参加したため退学になった。1870年と1871年の間はオデッサのノヴォロシースク大学に移り、動物学の教授イリヤ・メチニコフと友人になり、講義に参加した。大学で学びながら絵の修行をした。
1871年に母親と妹と共に西ヨーロッパに移り、ジュネーブで開かれた美術展に参加した。1871年から1876年までオデッサの銀行で出納係として働き、その後父の遺産管理人を務めた。
1877年にパリに移り、画家として専念し、ウジェーヌ・カリエールのアトリエで修行した。パリで働くロシア人画家のアレクセイ・ボゴリュボフに師事し、バルビゾン派やカミーユ・コロー、印象派の絵画を研究した。
パリではロシアの作家のイワン・トゥルゲーネフや音楽家のポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド、画家のヴァシリー・ポレノフやイリヤ・レーピンたちと友人になった[3] 。1879年と1880年のパリのサロンで出展を受理された[4][5]。いくつかの絵画はロシアの収集家パーヴェル・トレチャコフに買い上げられた。1881年にロシア皇帝、アレクサンドル3世から注文を受けてブルガリアで露土戦争の場面を描いた一連の絵画を制作した。1882年にパリの美術商のジョルジュ・プティと契約を結んだ。フランスでは、セルヒー・ヴァシリキウシキーやニコライ・サモキシュ(Mykola Samokysch)といったウクライナ出身の画家たちと活動した [6]。
1882年にスウェーデン系フィンランド人の医学生のマチルダ・フォン・ヴルフェルト(Matilda von Wulffert: 1856–1927)と結婚した。ポーやベルギーのリエージュ郊外に住んだ。1890年代に義姉のユージニア・フォン・ヴルフェルトと恋愛関係になった。
1895年に移動派(巡回美術展協会)に入会し、1904年からはアルヒープ・クインジが創設した芸術家協会に参加し、1904年に帝国美術アカデミーの正会員に選出された。
第一次世界大戦中は革命の始まりまでサンクトペテルブルクに住み、その後現ウクライナのクバーニに避難し、1年間滞在した。
大戦後ベルギーに戻り、ド・パンヌやブリュッセルに住み、晩年はが衰え、ほとんど絵を描かなくなった。1922年に最後の個展を開き、1923年にブリュッセルで亡くなった。1925年に大規模な回顧展が開催された。
孫に作曲家・ピアニスト・指揮者のイーゴリ・マルケヴィチ(1912-1983)がいる。