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インノケンティウス4世 (ローマ教皇)

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インノケンティウス4世(Innocentius IV, 1195年頃 - 1254年12月7日)は、第180代ローマ教皇(在位:1243年 - 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(Sinibaldo Fieschi)。ハドリアヌス5世は甥に当たる。

教皇就任 1243年6月28日
教皇離任 1254年12月7日
概要 教皇就任, 教皇離任 ...
インノケンティウス4世
第180代 ローマ教皇
教皇就任 1243年6月28日
教皇離任 1254年12月7日
先代 ケレスティヌス4世
次代 アレクサンデル4世
個人情報
出生 1195年頃
マナローラ
死去 1254年12月7日
ナポリ
紋章
その他のインノケンティウス
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生涯

1245年、第1リヨン公会議を開催、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方より来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣した。一方で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペやホラント伯ウィレム2世を対立王に選出した。また、ポルトガル王サンシュ2世を廃位に追い込み、弟のアフォンソ3世に王位を譲らせた。

東欧ではヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版)以降、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だったハールィチ・ヴォルィーニ大公国がモンゴル帝国のジョチ・ウルスの属国になると、第二次ブルガリア帝国を新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、イヴァン・アセン2世時代に失効したブルガリアとの教会合同をカリマン1世に申し出た。

1246年、ジョチ・ウルスと戦っていたハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロに王位を授けてルーシ王とし、ジョチ・ウルスを牽制したが、同年8月24日のクリルタイでグユクが第3代ハーンになり、カルピニが謁見の際に教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。この時に教皇宛に送られたグユク・ハンの勅書が現存しており、グユクは教皇に帰順を求めている。帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った。

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