1245年

From Wikipedia, the free encyclopedia

他の紀年法

カレンダー

できごと

ヨーロッパ

ハエン包囲戦

1245年の冬、カスティーリャフェルナンド3世(聖王)は、ムーア人の支配下にあったアンダルシア地方の都市ハエンを包囲した。この戦役はレコンキスタの一環として行われたものである。包囲戦の最中、ムーア人の騎士たちは城外へ出撃し、カスティーリャ軍の補給隊を捕捉・奪取することに成功した。フェルナンド3世は城門への直接攻撃を試みたが、いずれも効果を上げることはなかった。この戦いは翌1246年に終結し、ハエンはカスティーリャに降伏・併合されることとなる。

また、同時期の記録によれば、戦争と財政的負担の影響により、カスティーリャ王国のセゴビア地方は「人口が減り、不毛な土地」として描写されている。[1]

ウェストミンスター寺院の再建

イングランドヘンリー3世は、1245年にウェストミンスター寺院の大規模な再建工事に着手した。この工事は、エドワード懺悔王を讃える目的で行われたものであり、ゴシック様式による壮大な再設計が特徴である。寺院の再建は、イングランド中世建築の転換点とされている。

レバント

ダマスカス包囲戦

1245年4月、エジプトアイユーブ朝の支配者アッ=サーリフ・アイユーブは、シリアの都市ダマスカスを包囲した。包囲は6か月に及び、最終的に同地の支配者アッ=サーリフ・イスマーイールは降伏し、対価としてバアルベックおよびハウラーンを含む従属的な領地を与えられた。アイユーブはこの勝利の後、アッバース朝カリフアル=ムスタアスィムより正式にスルタンの称号を授けられた。[2]

宗教

トーマス司教の辞任

1245年2月21日、フィンランドトゥルク司教トーマス英語版)は、教皇インノケンティウス4世によって辞任を認められた。トーマスは辞任に際し、自らの過失として拷問教皇文書偽造など複数の罪を告白しており、辞職後は修道士として余生を過ごした。

第一リヨン公会議

1245年6月28日、フランスリヨンにて第一リヨン公会議(第13回公会議)が開催された。この会議において、教皇インノケンティウス4世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世破門し、帝位からの廃位を宣言した。会議ではさらに、第七回十字軍の派遣が正式に決定された。[3]

モンゴルへの使節派遣

同年4月16日、教皇インノケンティウス4世は、フランチェスコ会士ジョヴァンニ・ダ・ピアノ・カルピニをモンゴル帝国の首都カラコルムに派遣し、モンゴル指導者にキリスト教への改宗を促した。この外交使節は、東西交流史における重要な一幕とされている。[4]

誕生

死去

脚注

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI