イヴァン・ニキーチン (画家)
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モスクワで司祭の息子に生まれた。弟のローマン・ニキーチン(Рома́н Ники́тин: 1691—1753)も画家になった。モスクワで、ピョートル大帝がオランダから招いた版画家アドリアン・スクーネベーク(Adriaan Schoonebeek)に美術を学んだ[4][5]。1711年にサンクトペテルブルクに移りび、ドイツから招かれたヨハン・ゴットフリート・タンナウアー(Johann Gottfried Tannauer)に学んだ。
1716年から1720年の間、弟のローマンとともに、イタリアに派遣され、ヴェネツィア、フィレンツェに留学し[1]。トンマーゾ・レディ(Tommaso Redi)といった画家にに学んだ。帰国後、宮廷画家になり。1725年に臨終のピョートル大帝の肖像画を描いた。ピョートル大帝が亡くなった後も1732年まで宮廷で働き続けた。
1732年に弟とともにロシア正教の有力者、フェオファン・プロコポビッチを批判するるパンフレットを配布した罪で逮捕され[5]、拷問を受け、サンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞に5年間投獄された後、鞭打ちの刑をうけ西シベリア平原の街トボリスクに追放された。1740年にロシア皇帝のアンナが亡くなった後、兄弟は恩赦を受けた。恩赦は1741年に発効し、1741年後半か1742年初めにトボリスクからサンクトペテルブルクに戻る途中のどこかで亡くなったとされる[5]。
ロシア伝統のイコンの技法から離れ、イタリアの肖像画のスタイルで多くの肖像画を描いた[4]。