ウィリアム・ウォルドグレイヴ (初代ラッドストック男爵)
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初代ラッドストック男爵ウィリアム・ウォルドグレイヴ(William Waldegrave, 1st Baron Radstock GCB、1753年7月9日 – 1825年8月20日)は、イギリス海軍の軍人、アイルランド貴族。ウォルドグレイヴ伯爵家の出身であり、1797年のサン・ビセンテ岬の海戦で戦功を立てた後、ニューファンドランド副総督を務め、1800年に男爵に叙された[1]。

軍人としては1781年の上官ジョージ・ダービーに評価されたものの、1796年の上官ジョン・ジャーヴィスには「私が許容できないほどにしつこい」と酷評された[1]。ニューファンドランド副総督としてはフランスからの襲撃への備えに追われ、『カナダ人名事典』で「慎重で保守的」と評された[2]。
生涯
生い立ち
第3代ウォルドグレイヴ伯爵ジョン・ウォルドグレイヴと妻エリザベス(1784年4月28日没、初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴアの娘)の次男として、1753年7月9日に生まれた[1]。1759年から1765年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1766年5月17日にイギリス海軍に入った[3]。
アメリカ独立戦争
海軍ではまず4等艦ジャージーに配属され、リチャード・スプライ率いる地中海艦隊のもとで3年間勤務した[4]。1769年8月に5等艦ケベック(艦長フランシス・レノルズ)に転じて西インド諸島勤務になり、スループのスパイに1年間、4等艦モンタギューに8か月間配属された後、1772年8月1日に海尉への昇進とともに帰国した[3]。その後、1773年1月に4等艦ポートランドに転じて再び西インド諸島に向かい、3等艦プリンセス・アミーリアに転じた後同年9月に帰国した[3]。1774年3月に4等艦メドウェイに転じて地中海勤務になり、1775年6月23日にスループ船ゼフィルの艦長(海軍中佐)に昇進した[4]。
1776年5月30日に勅任艦長に昇進して、同年8月にサー・エドワード・ヴァーノン率いる東インド艦隊の旗艦である4等艦リポンの艦長に任命され、インド勤務になったが、インドの気候に適応できずに体調を崩し、1年3か月後に帰国を余儀なくされた[4][3]。1778年9月にフリゲートのポモナの艦長に任命され、1779年1月に西インド諸島でアメリカの私掠船カンバーランド(Cumberland)を拿捕した[4][5]。その後、3等艦ラ・プルデンテ(La Prudente)への配置転換を経て帰国、海峡艦隊勤務となった[4][3]。
1780年7月4日に5等艦リコーン(Licorne)とともにフランスのフリゲートのカプリシューズ(Capricieuse)を拿捕したが、カプリシューズの損傷が激しく、結局ウォルドグレイヴはカプリシューズの焼却を命じた[4]。1781年4月、包囲戦中のジブラルタルへの補給を護送するジョージ・ダービーの作戦に加わり、同年12月にもリチャード・ケンペンフェルト率いる艦隊に加わってウェサン島の海戦に参戦した[4]。1782年3月にフリゲートのフェートンに転じ、同年10月に今度は第4代ハウ子爵リチャード・ハウ率いるジブラルタルへの補給護送艦隊に加わった[4]。
1783年にアメリカ独立戦争が終結すると、ウォルドグレイヴは大陸ヨーロッパを経てギリシャを旅し、1785年にスミュルナでオランダ人商館長の娘と結婚した後、1786年に帰国した[4]。
フランス革命戦争
しばらくは海軍での任務がなかったが、1790年のヌートカ危機でイギリスとスペインの関係が悪化すると、3等艦マジェスティックの艦長に任命され、3週間後にヌートカ危機が解決すると再び半給になった[4][3]。
1793年にフランス革命戦争が勃発すると、戦列艦クラジューの艦長に任命され、地中海勤務となった[4]。同年8月にイギリスがトゥーロンを占領すると、その報せを本国に届けることになり、バルセロナで上陸して、陸路でア・コルーニャに向かい、そこから船でファルマスに向かった[3]。その後、オランダ、ドイツ、イタリア経由で艦隊のもとに戻ったが、1794年7月4日に少将に昇進すると再び帰国、1795年5月に小艦隊の指揮を委ねられた[3]。
1795年6月1日に青色中将に昇進、11月に2等艦バーフラーを旗艦として地中海に向かった[3]。このとき、地中海艦隊の指揮官はサー・ジョン・ジャーヴィスであり、ウォルドグレイヴは序列第3位の指揮官として1797年2月14日のサン・ビセンテ岬の海戦に参戦した[4]。この海戦はイギリスの大勝に終わり、序列第2位の指揮官チャールズ・トムソン、第4位のウィリアム・パーカーはそれぞれ準男爵に叙された[4]。第3位のウォルドグレイヴにも準男爵への叙爵が打診されたが、ウォルドグレイヴは準男爵が伯爵の息子より下の序列であるとして辞退した[4]。
ニューファンドランド副総督
ウォルドグレイヴは1797年4月に帰国した後[3]、5月にニューファンドランド副総督に任命され、同年夏に任地に到着した[2]。この時代の慣例に従い、任期が3年間で、毎年3か月ほどしかニューファンドランドに滞在せず、10月下旬には発って帰国していた[2]。『カナダ人名事典』によれば、この滞在時期の短さは政府が漁繁期にしか必要とされないことを示していた[2]。しかし政治活動家のジョン・リーヴスが1791年に指摘したように、ニューファンドランドに漁師しかいないという時代はとうの昔に過ぎており、漁業に従事しない商人が多数いるうえ、社会を形成するほどに人口が多くなってきていた(この時期のニューファンドランド住民は約3万人)[2]。この状況に直面したウォルドグレイヴは1798年より裁判所の首席裁判官をセントジョンズに常駐させた[2]。一方で副総督の通年滞在はウォルドグレイヴの在任中には実現せず、20年後の1818年を待つことになる[6]。このほか、住民からの募金を集める救貧委員会(Committee for the Relief of the Poor)を設立、自身も多くの募金をした[2]。またラム酒への徴税を財源に微罪判事に俸給を与えることを検討したが、商人の猛反対に遭って失敗した[2]。
軍事面ではセントジョンズからわずか数マイルのベイ・ブルズが1796年9月にフランス艦隊の襲撃を受けて焼き討ちにされた(ニューファンドランド遠征)事件が起こっており、『カナダ人名事典』によればウォルドグレイヴの文通集に「護送船団」「沿岸砲台」「募兵」「脱走兵」といった議題が頻出した[2]。さらにウォルドグレイヴの到着直後に5等艦ラトーナの水兵が反乱を起こし、ウォルドグレイヴはその鎮圧に追われた[2]。
ウォルドグレイヴの任期が終わると、その後任にチャールズ・ポールが1800年6月に任命された[2]。
晩年
1800年12月29日、アイルランド貴族であるクイーンズ・カウンティのカースルタウンにおけるラッドストック男爵に叙された[1][7]。
1799年2月14日に赤色中将[8]、1802年4月29日に青色大将[9]、1805年11月9日に白色大将[10]、1810年7月31日に赤色大将に昇進したものの[11]、この時期には海軍の役職への任命がなくなった[4]。
1815年1月2日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[1]。これはバス騎士団の改革に伴い、それまでの「儀礼席次における序列の高い人物にバス勲章(KB)を授与しない」慣例がなくなり、伯爵の息子であるウォルドグレイヴにも授与できるようになったためである[4]。
1825年8月20日にメリルボーンのポートランド・プレイスで病死、エセックス州ネイヴストックで埋葬された[1]。息子グランヴィル・ジョージが爵位を継承した[1]。
評価
1781年4月のジブラルタルへの補給護送任務における上官ジョージ・ダービーは同年6月の文通でウォルドグレイヴを「注意深い良い士官」と評したが、フランス革命戦争期の上官ジョン・ジャーヴィスは1796年7月の文通で海軍大臣の第2代スペンサー伯爵に対しウォルドグレイヴを「私が許容できないほどにしつこいうえ、ささいな事についても長文を送りつけてくる」と評し、その更迭を求めた[1]。もっとも、この要求は受け入れられず、ウォルドグレイヴが帰国したのは年を越したサン・ビセンテ岬の海戦の後のこととなった[1]。1805年に海軍大臣を務めた初代バーラム男爵もウォルドグレイヴを「道理をわきまえない人」と評した[3]。
『オックスフォード英国人名事典』はウォルドグレイヴの海軍入りから将官昇進までにかかった時間が28年、同時代のカスバート・コリングウッドが38年だったことを取り上げ、伯爵の息子であることが有利に働いたと結論付けた[3]。
『カナダ人名事典』はニューファンドランド副総督としてのウォルドグレイヴを「慎重、保守的で、おそらく過敏」、「母国の利益を断固とした態度で守るものの、すぐれた手腕や根気が伴っていない」と評した[2]。
家族
1785年12月28日、コルネリア・ヤコバ・ファン・レネップ(Cornelia Jacoba van Lennep、1762年/1763年[3] – 1839年10月10日、ダヴィット・ファン・レネップの娘)と結婚[1]、3男6女をもうけた[12]。
- グランヴィル・ジョージ(1786年9月24日 – 1857年5月11日) - 第2代ラッドストック男爵[1]
- エミリー・スーザン・ローラ(1787年11月6日 – 1870年4月12日) - 1815年8月25日、ニコラス・ウェストビー(Nicholas Westby、1860年8月24日没)と結婚[12]
- マリア(1788年12月26日 – 1791年[12])
- イザベラ・エリザベス(1792年8月18日 – 1866年10月21日[12])
- ハリエット・アン・フランシス(1793年8月20日[12] – 1880年7月26日) - 生涯未婚[13]
- ウィリアム(1796年6月7日 – 1838年12月20日) - 海軍軍人。1820年9月25日、アミーリア・オールポート(Amelia Allport、1846年8月没、ハンフリー・オールポートの娘)と結婚[12]
- キャロライン(1798年10月4日[12] – 1878年1月7日) - 1830年12月16日、カリュー・シンジョン=マイルドメイ(Carew St. John-Mildmay、1878年7月13日没)と結婚、子供あり[13]
- オーガスタス(1803年2月3日 – 1825年10月26日[12])