ウィリアム・オーバートン
アメリカ人の開拓者
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ウィリアム・オーバートン(William Overton)は、北アメリカの太平洋岸北西部にあったオレゴン・カントリー(現在のアメリカ北西部からカナダ南西部にまたがる地域)で活動したアメリカ人の開拓者である。1840年代半ば、後にオレゴン州ポートランドとなる土地の権利をエイサ・ラブジョイと共同で取得した。その後ほどなくして、自身の持ち分をフランシス・W・ペティグローブに売却した。
経歴
1890年にポートランドの歴史をまとめた本を刊行した歴史家ハーヴェイ・W・スコットによると、オーバートンについて分かっていることは少ない。[1]テネシー州出身で、オレゴンシティに入植したというのが通説である。カリフォルニアを経由し、ジョセフ・ゲイルとともにオレゴンへ来た可能性もある。オレゴン到着後の数か月、1841年11月1日から1842年初めまでは、ザ・ダルズにあったメソジスト派(プロテスタントの一派)の伝道所で働いていた。[2]
ジェームズ・W・ネスミスは、オーバートンを「向こう見ずで騒々しい男」(desperate, rollicking fellow)と評した。[1]1843年か1844年、オーバートンとラブジョイは、毛皮交易の拠点だったバンクーバー砦からオレゴンシティへカヌーで向かう途中、現在のジェファーソン・ストリートとワシントン・ストリートの間にあたるウィラメット川沿いの土地に立ち寄った。そこはすでに切り開かれており、アメリカ先住民が木々を伐採した可能性もある。ウィラメット川を往来する人々がよく立ち寄る場所になっていた。当時、ウィラメット川とコロンビア川の合流点付近には、いずれ大都市が築かれると広く考えられていた。[1]オーバートンはこの土地を取得しようと考え、ラブジョイに頼んで640エーカー(約260ヘクタール)の土地取得を申請した。[3]2人はさらに木を切り払い、住居を建て始めた。[1]オーバートンの小屋は正面に壁がなく、物置小屋同然だった。ポートランドで最初に区画された市街地は、道路で囲まれた16の街区からなり、1845年に整備された。[4]
失踪とその後
オーバートンは現地で樽の側板や屋根板を作り、オレゴンシティで売っていた。樽職人のジミー・スティーブンスに、樽300個と引き換えに自身の持ち分を譲ろうとしたが、断られた。当時、ラブジョイとペティグローブは、この土地を市街地として区画することを検討していた。[5][6]オーバートンは土地の持ち分をペティグローブに50ドルで売却した。ただし、土地を利用できるようにするための改良費として、ラブジョイに60ドルを支払う必要があった。[7]
その後、テキサスに住む母親が病気だと聞いたオーバートンは同地へ向かい、そのまま消息を絶った。テキサスで絞首刑にされたとの噂も流れたが、[1]ハワイに渡った可能性を示す記録も残っている。[8]
ポートランド北西部にあるオーバートン・ストリートは、彼にちなんで名付けられた。
関連項目
- ポートランドの歴史 (オレゴン州)
- 1970年以前に失踪した人物の一覧