ウィリアム・シュー
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ウィリアム・シュー | |
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| 生誕 | 1820年3月23日 |
| 死没 | 1903年2月5日(82歳没) |
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| 職業 | 写真家(ダゲレオタイプ) |
| 活動期間 | 1840年代 - 1890年代 |
| 配偶者 | エリザベス・マリー・スタッドリー |
| 子供 | テオドーラ・アリス・シュー |
ウィリアム・シュー(William Shew、1820年3月23日 - 1903年2月5日)は、19世紀アメリカ合衆国の写真家。ダゲレオタイプ(銀板写真)の草創期に活躍した肖像写真家であり、馬車に写真機材を積み込んだ移動式写真館「ダゲレオタイプ・サルーン」を運営したことで知られる。万延元年遣米使節がサンフランシスコを訪れた際には、随行員の福澤諭吉が彼のスタジオで娘と撮影を行い、写真は日本で最も初期に紹介された白人女性写真の一つとして著名である[1]。

ウィリアム・シューは1820年、ニューヨーク州ウォータータウン近郊に生まれた。若いころ、電信機の発明者として知られるサミュエル・モースからダゲレオタイプ写真術を学び、兄弟のトルーマン、ジェイコブ、マイロンも同じくモースのもとで写真技術を身につけた。兄弟はのちに写真家ジョン・プランビーのスタジオで働き、ウィリアムは1841年から1844年にかけてボストン支店に勤務した[2]。
独立後は、ダゲレオタイプ用の写真ケースを製造する「ウィリアム・シュー・アンド・カンパニー」を設立し、写真家マルセナ・キャノンと共同でスタジオを運営した。このころ、彼はマサチューセッツ州の奴隷制度廃止運動にも参加していたことが知られている。
1851年、兄ジェイコブを追ってカリフォルニアに移住し、サンフランシスコに新たな写真館を開いた。同年、探検企画「グレート・パントスコープ」のため、ロッキー山脈やソルトレイク方面をめぐるパノラマ写真の撮影依頼を受けて各地を巡った。
また同じ1851年、サンフランシスコのデュポン通りに移動式写真館「ムーバブル・ダゲレオタイプ・サルーン」を開設した。のちにワシントン通りへ移転し、さらにクレイ通り、モントゴメリー通り、カーニー通りなど、サンフランシスコ市内の複数の場所で営業した。1854年には雑誌『ザ・パイオニア』に「写真術」という文章を寄稿したとされ、写真技術の論評者としても活動した。
1860年、万延元年遣米使節がサンフランシスコを訪れた際、随行員の福澤諭吉がシューのスタジオで記念写真を撮影した。この写真にはシューの娘セオドラ・アリス・シューが写っており、日本に紹介された最初期の白人女性写真の一つとして後世に広く知られている[3]。
シューは写真家としての活動にとどまらず、地域社会の政治・市民運動にも参加した。1852年には自宅でサンフランシスコ自由土地党(フリーソイル党)の会合を開き、教育委員会に所属したほか、禁酒協会の主催なども行っている。
私生活では、1847年にボストンでエリザベス・マリー・スタッドリーと結婚し、のちに娘セオドラをもうけた。エリザベスは1889年に腸チフスで死去し、シューは1891年にアニー・キャサリン・ヘイヴンと再婚した。兄弟のうち、写真家として最も成功したのはウィリアム自身で、トルーマンは1848年に早世し、ジェイコブは困窮ののち1879年に死去、マイロンは商業や製造業など幅広い仕事を経験した。
