対面するリチャード・ニクソンとバーガー(1969)
ウォーレン・E・バーガーは、1907年9月17日にミネソタ州セントポールで7人兄弟の末っ子として生誕した[1]。学生頃から政治に興味をもち高校生では生徒会長をつとめた。第二次世界大戦が開戦した際バーガーは軍隊に入隊するのを試みたが病気により軍になることはなかった。1956年にドワイト・D・アイゼンハワーによってコロンビア特別巡回控訴裁判所判事に就任した。彼はこの職務をケネディ、ジョンソン時代まで在任し任期を満了した。1968年、14代アメリカ合衆国最高裁判所長官のアール・ウォーレンが退任を発表した。ジョンソンは当初最高裁判所判事のアベ・フォルタスを後任にしようと試みたが上院議会によって阻止された。これによりジョンソンは退任するまで新たな最高裁判所長官を指名することはなかった。1969年、政権がリチャード・ニクソンになるとニクソンは当時61歳のバーガーを任命した。上院は投票でバーガーを最高裁判所長官に承認した。
1969年6月23日、バーガーは正式に15代最高裁判所長官に就任した。在任中にはアメリカ社会に大きな影響を与える事件がおおかった。特に1973年に女性が妊娠中絶を選択する権利が憲法上保護されているかが争点となるロー対ウェイド事件が発生した。バーガー自身はこれに批判的だったが多数派の意見などで賛成し、バーガーと最高裁判所は「プライバシーの権利」として中絶の権利を認めた。この判決はアメリカ政治に長期的な論争を引き起こす画期的な判決となった。他人種差別を巡る裁判では学校バスの人種差別撤廃を支持したことでも知られている。
1972年、ウォーターゲート事件が発覚した。この事件はニクソン政権関係者らが民主党本部ビルで盗聴し、それにニクソンが隠蔽工作していた事件である。この事件の裁判内容は以下の通り
レーガン大統領の就任宣誓を行うバーガー。(1981年)
「大統領が大統領特権を理由に証拠提出を拒否できるのか?」という内容であった。この裁判は長期間にわたり論争となったが結局結果は全会一致で「法の支配は大統領をも拘束する」と判断し、ニクソンに録音テープの提出を命じた。この裁判結果によりニクソンは辞任を余儀なくされ大統領権限の限界を明確にした歴史的判決となった。この裁判はバーガーの在任のなかで最も歴史的なものとなった。ニクソンはその後ジェラルド・R・フォード大統領によって恩赦された。その後もバーガーは最高裁判所長官としてフォード、カーター、レーガンの就任宣誓を行い、1986年9月26日、アメリカ合衆国憲法制定200周年を記念するイベントの主導するために退任した。後任はウィリアム・レンキストとなった。バーガーは20世紀では最も長く在任した最高裁判所長官となった。退任後には大統領自由勲章を受章した。
1995年6月25日、バーガーは心不全により死去した[2]。87歳没。バーガーの文書はすべてウィリアム・アンド・メアリー大学に寄贈されている。妻のエルベラは1994年に86歳で死去している。