ウゴリーノ・ヴィヴァルディ (駆逐艦)
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| ウゴリーノ・ヴィヴァルディ | |
|---|---|
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ウゴリーノ・ヴィヴァルディ | |
| 基本情報 | |
| 建造所 | オデロ社、セストリ・ポネンテ |
| 運用者 | |
| 艦種 | 駆逐艦 |
| 級名 | ナヴィガトーリ級 |
| モットー | Con la prora diritta a gloria e a morte |
| 艦歴 | |
| 起工 | 1927年5月16日 |
| 進水 | 1929年1月9日 |
| 竣工 | 1930年5月6日 |
| 最期 | 1943年9月10日、沿岸砲と航空機により損傷し自沈 |
| 要目 | |
| 基準排水量 | 1,930 t |
| 満載排水量 | 2,621 t |
| 全長 | 107.3 m |
| 最大幅 | 10.2 m |
| 吃水 | 3.5 m |
| 主缶 | 水管ボイラー4基 |
| 主機 | ギアード蒸気タービン2基 |
| 出力 | 50,000 shp (37,000 kW) |
| 推進 | 2軸スクリュー |
| 速力 | 32 kn (59 km/h; 37 mph) |
| 航続距離 | 3,800 nmi (7,000 km; 4,400 mi)(18ノット) |
| 乗員 | 222~225名(戦時) |
| 兵装 | |
ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)は1920年代後半から1930年代初頭にかけてイタリア海軍で建造された12隻のナヴィガトーリ級駆逐艦のうちの1隻である。
第二次世界大戦
ウゴリーノ・ヴィヴァルディは1927年5月16日にオデロ・テルニ・オルランド社のジェノヴァ・セストリ・ポネンテ造船所で起工され、1929年1月9日に進水し、1930年5月6日に就役した[1]。
1930年代、ヴィヴァルディは主にイタリア艦隊で活動し、地中海での演習に参加した。1930年12月から1931年1月にかけてヴィヴァルディと姉妹艦7隻はイタロ・バルボのイタリアからブラジルまでの大西洋横断飛行を支援するため大西洋に配備された[2]。1936年から1938年にかけてヴィヴァルディはスペイン内戦に参加し、イタリア海軍はフランシスコ・フランコ軍の支援に深く関わった。
当初はエスペロラトーレ(嚮導艦/偵察艦)に分類されていたが、1938年にヴィヴァルディは駆逐艦に再分類された。1939年から1940年にかけて、ヴィヴァルディは艦首の改修を行った。
1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦した時、ヴィヴァルディはジョヴァンニ・ガラティ艦長の指揮下で姉妹艦レオーネ・パンカルド、アントニオ・ダ・ノーリ、ランツェロット・マロチェッロで構成される第14駆逐隊の旗艦を務めていた。
1940年8月、ヴィヴァルディは体当たり攻撃を行い潜水艦オズワルドを撃沈し、その後乗組員ほぼ全員を救助した。次の1年半、イタリアと北アフリカ間で補給船団を数十回護衛し、「1隻の喪失も出さない船」との評価を得た[3]。これはガラティ艦長がしばしば海軍本部の命令を無視し、代わりに彼の判断と経験に基づいて決断を下したからである[4]。当時の他の将校のように、彼は高位に潜んでいる裏切り者が連合軍にアフリカに向けて船団が航行中だと伝達していると確信しており、命令を無視することで迎撃を受ける危険性を軽減した(実際は多くの船団が迎撃を受けたのは裏切り者によるものでなくウルトラによるもので、枢軸国はその存在を知らなかった)。1941年後半から1942年初頭にかけての護衛作戦中、ヴィヴァルディはしばしば駆逐艦隊司令官アメデオ・ノミス・ディ・ポッローネ提督の旗艦として活動した。
1942年6月、イグナツィオ・カストロジョヴァンニ艦長指揮下のヴィヴァルディは、マルタに向かうイギリス船団への攻撃(ハープーン作戦)に参加し、護衛の駆逐艦との交戦中に機関室に被弾して大規模な火災が発生し、航行不能となった。航行不能状態のヴィヴァルディと僚艦マロチェッロは5隻のイギリス駆逐艦(ベドウィン、パートリッジ、マーン、マッチレス、イシュリエル)と対峙することとなり、カストロジョヴァンニ艦長は「私は最後まで戦うつもりだ、国王陛下万歳」とマロチェッロに無線を送り、ヴィヴァルディを放棄して自艦を優先するよう命令した[5]。マロチェッロはこれを拒否し、損傷した姉妹艦を護衛するためその場にとどまった。この時、数マイル離れたイタリア攻撃部隊の大半(巡洋艦2隻と駆逐艦3隻)と対峙していたイギリス護衛艦隊の指揮官は駆逐艦を呼び戻し、ヴィヴァルディとマロチェッロから撤退させて主戦闘を支援させた。ヴィヴァルディの火災は数時間続き、船体はほぼ真っ二つに分かれて艦首と艦尾の乗組員は互いに行き来が不可能となったが、最終的に火災は鎮火され、港へ曳航された[6]。この損傷の修理にはほぼ1年を要した。
1943年9月9日、イタリア降伏の後、ヴィヴァルディと姉妹艦ダ・ノーリはジェノヴァからローマ近郊のチヴィタヴェッキアまで航行するよう命じられ、アッシェ作戦を開始したドイツ軍による捕縛を防ぐため、そこで国王と政府要人を乗せサルデーニャ島のラ・マッダレーナへ移送する予定だった。しかし2隻がチヴィタヴェッキア付近に到着した際、ドイツ軍が既にローマ~チヴィタヴェッキア間の道路を占領しており、国王はローマから反対の海岸沿いのペスカーラ方面に逃亡していたため、この命令は撤回された。ヴィヴァルディとダ・ノーリは命令を受け、ラ・マッダレーナ沖で残りのイタリア艦隊と合流するため西へ航行し、合流後はサルデーニャからコルシカまでドイツ兵を輸送中のドイツ船と交戦するよう命令を受けた。交戦中、2隻はドイツ船数隻を撃沈もしくは損傷させたが、ドイツ軍に寝返ったコルシカ島の沿岸砲から砲撃を受けることとなった。ダ・ノーリは機雷により沈没し、ヴィヴァルディは大破したものの脱出に成功した。数時間後、減速して西へ航行中のヴィヴァルディは再びドイツ爆撃機の攻撃を受け、ヘンシェルHs293誘導ミサイルによってさらに損傷を受けた。乗組員が船を救おうと苦戦する中、数ノットの速度で数時間航行を続けた。しかし、最終的に大破したエンジンが停止し、指揮官のフランチェスコ・カミシア艦長は自沈を命じた。9月10日、ヴィヴァルディはアシナーラ島の西方約50マイルで沈没速度を速めるために船に戻ったアレサンドロ・カヴリアーニ少佐、ヴィルジニオ・ファサン下士官と共に沈没した。
ヴィヴァルディの生存者の一部を救助したドイツの水上機は直後にアメリカ軍機からの機銃掃射を受け破壊され、一部が死亡した。その他はドイツ船に救助されドイツの捕虜収容所に送られ、一部はアメリカ水上機に救助された。また別のグループはイギリス潜水艦スポーツマンに救助されてアルジェリアに移送され、さらに数十名は数日間様々なボートで海上を過ごした後、その一部は一週間以上漂流した後バレアレス諸島(スペイン)に到着した。乗組員のうち合計58名が死亡し、240名は救助されたかスペインに辿り着いた。