- 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また、当時はグレード制未導入。
イギリス産のサラブレッドの牡馬で、1915年のニューマーケットディセンバーセールにおいて300ポンドで落札されてアメリカへと輸入された。
2歳時はホープフルステークスで2着に入ったのが最高成績であった。3歳時の1917年はケンタッキーダービーとプリークネスステークスが同日に開催されており、ウマルハイヤームの陣営はダービーを選択、前哨戦である9ハロン戦の競走では4着に敗れたが、単勝オッズ14倍で挑んだ本番ケンタッキーダービーでは道中10番手の位置から追い込み、2着馬チケットを差し切って優勝を果たした[2]。
ケンタッキーダービー優勝から3週間後、ウマルハイヤームはベルモントパークで行われたセリ市に上場され、そこでカナダの製菓業者ウィルフリッド・ヴィヨーに26,000ドルで落札された[1]。新しい馬主のもと、ウマルハイヤームはプロスペクトハンデキャップ、ブルックリンダービー、ケナーステークス、サラトガカップ、トラヴァーズステークス、ハバディグレイスハンデキャップなどで勝利したほか、ピムリコオータムハンデキャップでは30ポンドのハンデキャップを課せられながらもトラックレコードで優勝している。
ウマルハイヤームの同期のライバルには、オーガスト・ベルモント2世の所有馬でありベルモントステークス優勝馬のアワーレスがいたが、ウマルハイヤームは同馬をブルックリンダービーやローレンスリアライゼーションステークスで破っていた。1917年10月18日にローレル競馬場で行われたジョン・R・マクラーレン記念ハンデキャップはこの2頭によるマッチレースとして行われ、ウマルハイヤームは1馬身差でアワーレスに敗れた[3]。後年の選考で、この年の最優秀3歳牡馬はウマルハイヤームとアワーレスが同時受賞している[1]。
4歳になるとハンデキャップが嵩んだことから勝ちきれなくなったが、それでもマリーンズリバティボンドハンデキャップを優勝、翌年1919年もレンナートハンデキャップで優勝している。
引退後は種牡馬となり、1920年からクレイボーンファームで繋養され、その後1929年にバージニア州シャーロットビルのJ・P・ジョーンズ牧場に移り、1938年に没するまで同地で暮らした[1]。種牡馬としての主な産駒には「アイアンホース」の異名で知られ185戦をこなしたマリシアス(Malicious 1927年生、騸馬)、ウッドメモリアルステークス優勝馬ミスターハイヤーム(Mr. Khayyam 1930年生、牡馬)などがいる。