ウリア・シマンゴ

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死没 1979年10月?
場所不明
政党 モザンビーク解放戦線(FRELIMO)(1962-1970)
モザンビーク革命委員会(COREMO)(1970-1974)
→国民連合党(PCN)(1974-)
Uria Simango
ウリア・シマンゴ
生誕 1926年3月15日
死没 1979年10月?
場所不明
死因 超法規的処刑
政党 モザンビーク解放戦線(FRELIMO)(1962-1970)
モザンビーク革命委員会(COREMO)(1970-1974)
→国民連合党(PCN)(1974-)
運動・動向 モザンビーク独立戦争
配偶者 セリーナ
子供 ダーヴィス・シマンゴルテロ・シマンゴ英語版
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ウリア・ティモテオ・シマンゴポルトガル語: Uria Timóteo Simango1926年3月15日 - 1979年10月?[1])は、モザンビーク長老派教会牧師、モザンビーク独立戦争期のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)の指導者。

彼の正確な死亡日は、他のFRELIMOに反対する人物や妻のセリーナ[2]とともに、サモラ・マシェル率いる独立後の政府によって非合法に処刑されたため不明である。

シマンゴはFRELIMO創設時からのメンバーで、1962年の創設から1969年2月に代表のエドゥアルド・モンドラーネが暗殺されるまで副代表を務めた。シマンゴはモンドラーネの跡を継いでFRELIMOの代表となった、だが、モンドラーネの死後の権力闘争で彼の代表の地位は争われることとなった。1969年4月、彼単独の統率はいわゆる三頭政治に置き換えられ、彼の役割は強硬派マルクス主義者のサモラ・マシェルとマルセリーノ・ドス・サントス英語版と共有されることとなった[3]。1960年代後半、FRELIMOは内部抗争により何人かのメンバーが不自然な死を遂げるなど荒廃していた[4][5][6]

三頭政治は続かず、シマンゴは1969年11月には組織中央から追い出され、そしてサモラ・マシェルとマルセリーノ・ドス・サントスが全体の指揮権を奪い取った。1970年4月にはシマンゴは他のFRELIMO内の反体制派、FRELIMO創設時の幹事長代理であったパウロ・グマネ英語版らとともにエジプトへ亡命した。同地でモザンビーク革命委員会(COREMO:ポルトガル語:Comitê Revolucionário de Moçambique) のリーダーとなり解放運動を続けた。

1974年のカーネーション革命の後、シマンゴはモザンビークに戻りFRELIMOとの自由選挙を望んで国民連合党(PCN)という新しい政党を立ち上げた。PCNにはFRELIMOの反体制派として活動した解放運動の著名人が加わった、マテウス・グウェンゲレポルトガル語版神父、ジョアナ・シメオンポルトガル語版、そしてFRELIMOの創設メンバーであるパウロ・グマネ、アデリーノ・グワンベらである。 FRELIMOは複数政党制に反対した。1974年以降、ポルトガル政府が唯一の権力をFRELIMOへ移譲していき、モザンビークは1975年6月25にその独立を勝ち得た。マシェルとドス・サントスは大統領と副大統領の地位を得た。グラサ・マシェルは教育大臣に、ジョアキン・アルベルト・シサノは外務大臣に任命された。ウリア・シマンゴは逮捕され、1975年5月12日にナチンウェア(タンザニア)にあるFRELIMOの基地で20ページにわたる公式な自白をさせられたのち、自説の撤回と再教育を課せられた。彼は数千のFRELIMOの戦士たちの前でそれを読むことを強制させられた。シマンゴの自白に含まれていた罪は、同僚をポルトガル秘密警察英語版のエージェントだと非難したこと、そしてモンドラーネの殺害に関与したことである。これらの「自白」については、もはや現在のモザンビークの指導者たちでも信用していない。

シマンゴと残るPCNの指導者たちは二度と自由を手にすることはなかった。シマンゴ、グマネ、シメオン、グワンベ、グウェンゲレたちはみな、正確な日時は不明だが1977年から1980年の間に秘密裏に処刑された。シマンゴの妻のセリーナ・シマンゴは別途1981年以降に処刑された、しかし、日時や詳細など彼らの死に関わる公式記録は存在しない。 埋葬された場所や処刑方法についても当局から開示されることはなかったが、学者のフィリップ・ローウェルはシマンゴは1979年の10月に殺害されたと考えており、その理由は彼がモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)のような他の反政府勢力の旗印として利用されるのを防ぐためだったとしている。

シマンゴらの処刑は司法プロセスを経ておらず、反逆罪に問われた理由には不明点が残っている。彼の伝記を書いたンコモによると、1974年にシマンゴがモザンビークに戻ったとき、彼はPCNのリーダーとして白人入植者の集団と一党独裁に反対するための戦略的な支援を受けるために暫定的な交渉をした。これは、5年後にジンバブエで複数政党選挙を条件に盛り込んだランカスター・ハウス協定英語版の先駆けとなるようなものであったが、1974年当時、FRELIMOの強硬派からは裏切り行為とみなされた。シマンゴの伝記は2004年に出版された[7]

家族

関連項目

出典

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