エイリーク1世 (ノルウェー王)
第2代美髪朝ノルウェー国王・ノーザンブリア伯。治世における殺戮行為により「血斧王」と呼ばれる。
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エイリーク1世(古ノルド語: Eiríkr blóðøx Haraldsson、ノルウェー語: Eirik Blodøks、895年頃 - 954年)は、10世紀前半のノルウェー王(在位:930年頃 - 934年頃)。ハーラル美髪王の息子で、その晩年には父と共同統治し、死後に後継者となったとされる[1]。ノルウェーを追われたのち、一般には10世紀半ばにヨークを中心としてノーサンブリアを支配したエイリーク王と同一人物とされている[1]。血斧王(Blóðøx、英語:Bloodaxe)の異名で知られ、この異名はエイリークの同時代にまで遡るスカルド詩にも確認されるが、その由来については兄弟との抗争に求める伝承と、ヴァイキング遠征で得た名声に求める伝承とがある[1]。
出自と後継者としての地位
エイリークはハーラル美髪王の息子として生まれた[1][2][3]。後世のスノッリ・ストゥルルソンによれば、母はユトランドの王エイリークの娘ラグンヒルド・エイリークスダッテルであり、「強大なラグンヒルド」と呼ばれた[4]。ただし、歴史家クラウス・クラーグによれば、12世紀から13世紀の王のサガのうちラグンヒルドを名指しするのはスノッリのみであり、その父とされるユトランド王エイリークも他の史料からは確認されない[5]。したがって、ラグンヒルドの出自に関する詳細は後世の伝承に依存している[5]。
ハーラルには多数の男子がいたと伝えられる。後世の王のサガは20人を超える息子の名を挙げるが、クラーグは、そのすべてが実際にハーラルの子であったかは不確かであり、比較的確実とみられるのは10人ほどとしている[1]。エイリークはその中でも王妃から生まれた唯一の息子であったとされ、この出自によって兄弟の中で特に高い地位を与えられたと考えられている[1]。後世の伝承にはエイリークをハーラルの有力な、あるいは年長の息子として描くものがあるが、兄弟中の出生順位そのものは明らかではない[1]。
王のサガによれば、ハーラルは息子たちにそれぞれ王号と支配地域を与える一方、エイリークを彼らの上位に置き、晩年には自らの共同統治者とした[1]。クラーグは、この制度を詳述するのが後世の王のサガ、特に『ヘイムスクリングラ』であることから、その具体的な制度設計については慎重に見る必要があるとする一方、ハーラルの複数の息子が王号を帯び、その中でエイリークが父の後継者となったという基本的な構図自体は確実性が高いとしている[1]。こうしてエイリークは父の最晩年には共同統治者となり、ハーラルの死後、930年代初頭にその王権を継承した[1]。
ヴァイキング遠征とグンヒルドとの結婚
エイリークの若年期について詳しく伝えるのは、主として後世に成立した王のサガである。『ヘイムスクリングラ』所収の『ハーラル美髪王のサガ』によれば、エイリークは12歳のときに父ハーラルから5隻のロングシップを与えられて遠征を始め、最初の4年間にはバルト海からデンマーク、フリースラント、ザクセン方面へ、その後の4年間には西方へ向かい、スコットランドやアイルランドなどで活動したとされる[6][7]。さらに同サガは、エイリークが北方のフィンマルクからビャルマランドにまで遠征し、そこで戦ったと伝えている[6]。ただし、エイリークのヴァイキング遠征を扱ったとされる同時代のスカルド詩は現存しておらず、こうした遠征の具体的な経路や年代は後世のサガによって伝えられたものである[1]。
『ハーラル美髪王のサガ』では、この北方遠征から帰還する途中、エイリークの部下たちがフィンマルクでグンヒルドという女性と出会ったとされる。彼女はハーロガランドのオズル・トティの娘を名乗り、2人のサーミ人から呪術を学んでいたという[6][7]。サガによれば、グンヒルドはエイリークの部下たちの助けを得てこの2人を殺し、その後エイリークは父オズルの同意を得て彼女と結婚した[6][7]。『エギルのサガ』も、エイリークがビャルマランド遠征の際にオズル・トティの娘グンヒルドを得て連れ帰ったと伝えている[8]。一方、歴史家クラウス・クラーグは、グンヒルドが呪術に通じた女性として描かれること自体が後世のサガにおける彼女の否定的な人物像と密接に結びついており、この物語をそのまま彼女の実歴とみなすことはできないとしている[9]。
グンヒルドの出自についても、中世史料の伝承は一致していない。12世紀後半に成立した『ヒストリア・ノルベジエ』は、エイリークがデンマーク出身のグンヒルドを妻とし、彼女をデンマーク王ゴーム老王とその妻チューラの娘としている[10][11]。これはグンヒルドをハーロガランドのオズルの娘とするアイスランド系のサガ伝承とは異なる。クラーグによれば、『ヒストリア・ノルベジエ』はこの点でアイスランド系伝承から部分的に独立しており、近代以降の歴史家の大多数はグンヒルドをゴーム老王の娘とみなしてきた[9]。エイリークがグンヒルドと結婚し、のちに複数の息子をもうけたこと自体は確かとみられるものの、彼女の出自やエイリークとの出会いをめぐる詳細には異なる伝承が残されている[1][9]。
『聖カトロー伝』と王妃をめぐる問題
後世のノルウェー・アイスランド史料とは別に、10世紀後半に成立したとされる聖人伝『聖カトロー伝』には、ヨークの「エイリーク王」(rex Erichius)とその妻に関する記述がある。スコットランドから大陸へ向かったカトロー・オブ・メッツは、カンブリア人の王ディヴンワルに伴われて「カンブリア人とノルマン人の境界」とされるロイダ(Loida civitas)へ到着し、そこから貴族グンデリクに案内されてヨークのエイリーク王のもとへ赴いたとされる[12]。同書は、その理由としてエイリークの妻がカトローの親族であったことを挙げるが、妻の名は記していない[12]。
この記述は、ヨーク王エイリークをノルウェーのエイリーク血斧王と同一人物とみなす場合に問題を生じさせる。歴史家アレックス・ウルフは、『聖カトロー伝』に描かれる旅程を939年から946年の間に位置づけ得る一方、島嶼部の史料でヨーク王エイリークが明確に確認されるのは947年以降であり、その多くの期間にはヨークをウィ・イマール系のオラフたちが支配していたことを指摘している[13]。また、『聖カトロー伝』の王妃を後世のサガに登場するグンヒルドと同一視できる根拠も同史料自体にはなく、エイリークの妻をめぐる伝承は、王自身の同定問題とも結びついている[14][9]。
兄弟との抗争とノルウェー王位
ハーラル美髪王の晩年、エイリークと異母兄弟たちとの関係は次第に悪化した。歴史家クラウス・クラーグは、その背景には、ハーラルが複数の息子に王号とそれぞれの支配地域を認めながら、一方でエイリークを彼らの上位に置いて王国の統一を維持しようとしたという、相反する王朝政策があったとみている[1]。
後世の『ヘイムスクリングラ』は、エイリークと兄弟たちの抗争についていくつかの具体的な物語を伝えている。同書によれば、ハーデランドを支配していた異母兄ラグンヴァルド・レッティルベイネは呪術を行っているとして父ハーラルの怒りを買い、ハーラルの命を受けたエイリークによって、ほかの呪術師たちとともに建物の中で焼き殺された[15]。この物語では、ラグンヴァルド殺害はエイリーク自身の王位争いによるものではなく、父王の命令による行動として描かれている[15]。
一方、ヴェストフォルを支配していた異母兄ビョルン・ファルマンとの対立について、『ヘイムスクリングラ』はより直接的な政治・経済上の争いとして描いている。バルト海方面の遠征から帰還したエイリークは、ビョルンに対して父ハーラルに納めるべき税収を引き渡すよう要求したが、ビョルンは従来どおり自ら父王に納めるとしてこれを拒否したとされる[16]。両者は決裂し、エイリークはその夜にビョルンの滞在地を襲撃した。ビョルンは部下とともに応戦したが戦死し、この事件によってエイリークはヴィーケンの人々から強い反感を買ったと同書は伝えている[16]。
ハーラルの死後にも兄弟間の争いは続いた。『ヘイムスクリングラ』によれば、エイリークが父の死後に王領からの収入を掌握しようとしたのに対し、異母兄オーラヴはヴィーケン、シグルズはトロンデラーグにおける収入と支配権を保持した[17]。オーラヴとシグルズは連携してトンスベルグに軍勢を集めたが、エイリークはより大きな軍勢を率いて急襲し、両者を戦死させたとされる[17]。したがって『ヘイムスクリングラ』の叙述では、ラグンヴァルド、ビョルン、オーラヴ、シグルズの4人がエイリークの軍事行動によって死亡したことになるが、その個々の事件の具体的な経緯は後世のサガによって伝えられたものである[1][15][16][17]。
エイリークの異名「血斧」(古ノルド語:blóðøx)も、伝統的にはこうした兄弟との抗争に結びつけられてきた。クラーグによれば、この異名そのものはエイリークと同時代に近いエイヴィンド・スカルダスピッリルやエギル・スカラグリームスソンの詩に確認されるため、後世のサガ作者による創作とは考えにくい[1]。しかし異名の由来について、中世史料の説明は一致していない。『アグリプ』は兄弟殺害に由来するとし、修道士テオドリクスもエイリークを「兄弟たちを殺した者」と呼ぶ一方、『ファグルスキンナ』は西方へのヴァイキング遠征によって得た異名としている[18]。したがって、異名が10世紀にすでに用いられていたことと、その具体的な由来とは区別して考える必要がある[1][18]。
ハーラルは晩年にエイリークを共同統治者とし、その後継者としたとされる[1]。父の死後、エイリークはノルウェー王として単独で支配したが、その期間は短かった。クラーグによれば、父との共同統治期間を含めてもエイリークの統治はおよそ5年間であり、父の死後に単独で王位にあったのは2年ほどであったとみられる[1]。後世のサガでは、強権的な統治と兄弟との抗争によってエイリークと王妃グンヒルドに対する反感が高まったとされている[1][19]。
このころ、異母弟ホーコンはイングランド王アゼルスタンの宮廷で養育され、キリスト教徒として成長していた[20]。父ハーラルの死を知ったホーコンはノルウェーへ帰還し、エイリークに反対する勢力の支持を得た[20]。誰が政変を主導したかについてはサガごとに叙述が異なり、ホーコン自身を中心に据えるものがある一方、『ヘイムスクリングラ』ではラーデのシグルズ・ハーコンソン伯が重要な役割を果たしたとされる[20]。この政変を直接説明する同時代史料は残されていない[20]。
ホーコンは各地のシングで王として承認され、その支持が拡大すると、エイリークは934年頃に妻グンヒルドや家族とともにノルウェーを離れた[1][20]。こうしてエイリークのノルウェーにおける王権は短期間で終わり、ホーコンがその後継者となった[1]。
ブリテン諸島への亡命
ノルウェーを追われた後のエイリークの動向について、後世のノルウェー・アイスランド史料には複数の伝承が残されている。『ヘイムスクリングラ』所収の『ハーコン善王のサガ』によれば、エイリークはノルウェーを離れるとまずオークニー諸島へ向かい、そこで兵を集めたのち、スコットランドやイングランド北部を襲撃した[21][22]。同サガはさらに、イングランド王アゼルスタンが、父ハーラル美髪王との友好関係を理由にエイリークへ使者を送り、ノーサンブリアを領地として与える代わりに、デーン人その他のヴァイキングから同地を防衛することを求めたと伝える[21][22]。エイリークはこの条件を受け入れ、妻や子供、従者らとともに洗礼を受け、ヨークを拠点としたとされる[21][22]。
12世紀後半に成立した『ヒストリア・ノルベジエ』もこれと類似した伝承を伝える。同書によれば、王位を失ったエイリークはイングランドへ逃れ、ホーコンの養父であったアゼルスタンに迎えられて洗礼を受け、ノーサンブリア全土を統治する伯に任命された[23][11]。ただし、エイリークがアゼルスタンからノーサンブリアを与えられたというこの経緯は、同時代の英語史料には確認されない[24]。
亡命経路についても史料間の差は大きい。文献学者Margaret Cormackの比較によれば、初期のノルウェー王統史では、テオドリクスはエイリークを直接イングランドへ向かわせ、『ヒストリア・ノルベジエ』も同様にイングランドへの逃亡を記す一方、『アグリプ』はまずデンマークへ逃れたとしている[25]。『ファグルスキンナ』は娘ラグンヒルドがオークニー伯家へ嫁いだことを知っているものの、エイリーク自身がオークニー諸島へ立ち寄ったとは述べていない[26]。
これに対し、より後代の『聖オーラヴ別サガ』や『エギルのサガ』では、エイリークはイングランドへ向かう途中にオークニー諸島へ立ち寄って兵を集めたとされ、『エギルのサガ』はこの時に娘ラグンヒルドとオークニー伯家との婚姻を置いている[27]。『ヘイムスクリングラ』もエイリークがまずオークニー諸島で兵を集めたとするが、ラグンヒルドの婚姻はエイリークの死後、グンヒルドと息子たちが同諸島を一時的な拠点とした時期に置いている[27]。Cormackは、こうした比較から、エイリークとオークニー諸島を結びつける具体的な物語が各作品で異なる形に組み込まれていることを示している[27]。
ヨーク王エイリークとの同定
ノルウェー王エイリーク血斧王と、10世紀半ばにヨークを支配したエイリーク王を同一人物とみなす伝統は中世以来存在し、現在でも一般的な人物同定となっている[1]。しかし、この同定には史料上の問題も指摘されている。
10世紀の『アングロサクソン年代記』は、ノーサンブリア王となった人物を「エイリーク」または「ハーラルの子エイリーク」と記すが、ハーラルをノルウェー王ハーラル美髪王と明記せず、エイリーク自身についてもノルウェーを統治した経歴を記していない[28][24]。歴史家Sverrir Jakobssonは、このエイリークをノルウェー王と結びつける情報が同時代の年代記にはなく、両者の同定はより後代のサガ史料に依存していることを指摘している[24]。
一方、ヨークに「エイリーク」という王が実際に存在したこと自体は、文献史料だけでなく貨幣からも確認される。ヨークで鋳造された銀貨には「ERIC REX」(エイリーク王)の銘をもつものが現存しており、大英博物館所蔵の一例は952年から954年に鋳造されたものとされる[29]。ただし、この貨幣の銘そのものから、ヨーク王エイリークがノルウェーのエイリーク血斧王と同一人物であったことまで証明することはできない[24]。
ヨーク王位をめぐる情勢
エイリークが史料上ヨーク王として現れる以前から、10世紀前半のノーサンブリアではウェセックス王家とアイルランド海域を基盤とするスカンディナヴィア系王朝との間で王権がたびたび交替していた。927年、イングランド王アゼルスタンはヨークを支配していたグスフリズを追放し、ノーサンブリアに自らの権力を確立した[30]。しかしアゼルスタンが939年に死去すると情勢は再び変化し、『アングロサクソン年代記』D写本は941年にノーサンブリア人が「アイルランドから来たオラフ」を王に選んだと記す[30]。
このオラフ・グスフリトソンの死後にはオラフ・クアランが王位を継ぎ、さらにラグナル・グスフリトソンとの共同統治が行われた可能性もある[31]。イングランド王エドマンド1世は942年にデーンロウの五市地方を奪回し、オラフとラグナルはその後イングランド王との和解と洗礼を経たとされるが、944年には両者ともノーサンブリアから追放された[31]。北部史料『王の歴史』は、エドマンドがその後「ノーサンブリア人の王国を得た」と記している[31]。
エドマンドが946年に死去すると弟エドレッドがイングランド王位を継いだ。ロラソンは、この時期のヨーク王位について、王の交替が著しく断続的かつ複雑であり、暴力と政治的不安定によって特徴づけられていたと整理している[30]。エイリークがヨーク王として登場したのは、こうしたウェセックス王権とスカンディナヴィア系諸王との間で支配が繰り返し変動した状況の中であった[30]。
第一次ヨーク王位
エイリークがヨーク王として史料上明確に現れるのは、エドレッド王の治世である。『アングロサクソン年代記』によれば、947年にエドレッドはタンシェルフへ赴き、ヨーク大主教ウルフスタンとノーサンブリアの有力者たちから忠誠の誓いを受けたが、彼らはほどなくこの誓約を破った[28]。翌948年の項では、その理由としてノーサンブリア人がエイリークを王として受け入れたことが挙げられている[28]。エイリークの最初のヨーク王位は一般に947年から948年頃とされるが、この時期の年代記の年代配列や王位交替の正確な時期については研究上議論がある[32]。
エドレッドはこれに対して948年にノーサンブリアへ侵攻し、同地を荒廃させた[28][2]。この遠征では、リポンにあった聖ウィルフリッド建立の大聖堂も焼かれた[28][33]。エドレッド軍が撤退する途中、ヨークの軍勢はカッスルフォード付近でその後衛を襲い、大きな損害を与えた[28][33]。
これを知ったエドレッドは再び軍を率いてノーサンブリアへ入り、同地を徹底的に破壊する意向を示したと年代記は伝える[28]。これに対してノーサンブリアの有力者たちはエイリークを見限り、エドレッドに賠償を行った[28][33]。こうしてエイリークの最初のヨーク支配は短期間で終わった。
第二次ヨーク王位
エイリークが最初に追放された後、アングロサクソン年代記は949年にオラフ・クアラン(アングロサクソン年代記では Anlaf Cwiran)がノーサンブリアへ来たと記している[28]。この949年の記事だけではオラフがただちに王位に就いたことまでは明記されていないが、952年の記事では彼を「王」と呼び、ノーサンブリア人がオラフを追放して「ハーラルの子エイリーク」を受け入れたと記されている[28]。したがって、『アングロサクソン年代記』からは、遅くとも952年までにオラフがノーサンブリア王となり、同年にエイリークが彼に代わって王位に復帰したことが確認できる[28]。
同じ952年、イングランド王エドレッドはヨーク大主教ウルフスタンを拘禁した。『アングロサクソン年代記』は、その理由について、ウルフスタンに対する告発が以前からたびたび王のもとへ寄せられていたためと記すが、その具体的な内容は説明していない[28]。歴史家デイヴィッド・ロラソンは、ウルフスタンが947年にノーサンブリアの有力者たちとともにエドレッドへ忠誠を誓ったのち、エイリークを王として受け入れた政治過程に関与していたとみており、952年の拘禁についても、エイリークの再度の王位獲得をウルフスタンが支持していたことと関連づけている[34]。ただし、『アングロサクソン年代記』自体はウルフスタンの拘禁とエイリークの復位との因果関係を明記しておらず、両者の関係は史料をもとにした研究上の解釈である[28][34]。
エイリークのヨーク支配は貨幣史料からも確認できる。ヨークで鋳造されたエイリーク名義の銀貨が複数現存しており、「ERIC REX」(エイリーク王)の銘をもつ[29][1]。大英博物館が所蔵する952年から954年頃の銀貨では、貨幣商イングルガル(Ingelgar)の名とともに、表面の銘の間に右向きの剣が刻まれている[29]。貨幣研究者マーク・ブラックバーンによれば、エイリークの最初期の貨幣はエドレッド王のヨーク貨を引き継いだアングロ・サクソン的な形式であった一方、その最終期には剣を図像とする貨幣が発行された[32]。
エイリークのヨーク王位の年代については史料の年代配列をめぐる問題がある。一般的には、エイリークが947年から948年頃と952年から954年の2度にわたって王位にあったとする年代が採られてきた[32]。一方、歴史家ピーター・ソーヤーは英語史料の年代関係を再検討し、エイリークのヨーク統治を950年頃から952年または954年までの一度の治世とみる可能性を提示した[1]。ブラックバーンも貨幣史料からはいずれの年代配置も可能であるとしており、貨幣だけによってこの問題を決着させることはできないとしている[32]。
954年、『アングロサクソン年代記』は簡潔に、ノーサンブリア人が再びエイリークを追放し、エドレッドがノーサンブリアの王国を掌握したと記している[28]。エイリーク以後、ヨークに独立したスカンディナヴィア系の王が立つことはなく、同地におけるヴァイキング王権は終焉を迎えた[30]。もっとも、ノーサンブリアがただちに南部イングランドと同様の形で直接統治されたわけではなく、その後はオスルフ1世をはじめとする北部の有力者が伯として支配に重要な役割を果たすことになる[35]。

最期
954年、『アングロサクソン年代記』は、ノーサンブリア人がエイリークを追放し、エドレッドがノーサンブリアの王国を掌握したと記している[28]。同年代記はエイリークのその後や死亡については記しておらず、彼の最期をめぐる詳細は、より後世のイングランドおよびノルウェー・アイスランド系史料によって異なる形で伝えられている[36]。
12世紀頃に北イングランドで編纂された『王の歴史』は、エイリークをノーサンブリア最後の王とし、追放された後に「オラフの子マッカス」(Maccus son of Onlaf)によって殺害されたと伝えている[37]。ここでは殺害地は記されていない[37]。
13世紀前半の歴史家ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーは、これにさらに詳細を加えている。彼によれば、エイリークはバンバラのオスルフの裏切りによって、スタインモアと呼ばれる人里離れた場所でマッカスに殺害され、その際にはエイリークの息子と兄弟とされる人物もともに死亡した[38]。この伝承では、エイリークの死は会戦というより、追放後に行われた裏切りによる殺害として描かれている[38]。ただし、ウェンドーヴァーが記録したのは事件から約3世紀後であり、その記事には人物関係や年代をめぐる問題もあるため、具体的な経緯をそのまま同時代の事実として扱うことはできない[38]。
これとは異なり、後世のノルウェー・アイスランド系史料ではエイリークの死は大規模な戦闘として描かれる。『ヘイムスクリングラ』所収の『ハーコン善王のサガ』によれば、アゼルスタンの死後、エイリークはイングランド王との関係が悪化し、オークニーからアルンケル・トルフ=エイナルソンとエルレンド・トルフ=エイナルソンの2伯を加え、さらにヘブリディーズ諸島やアイルランドで兵力を集めながらイングランドへ向かった[39][40]。同サガでは、イングランド王が国土防衛のために置いたオーラヴという王が大軍を率いてエイリークを迎撃し、激戦の末にエイリークが戦死したとされる[39]。その際、エイリークとともにグットルム、その息子イーヴァルとホーレク、シグルズ、ラグンヴァルドの5人の王、およびアルンケルとエルレンドの2伯も戦死したと伝えられる[39]。同書は戦場をイングランド国内とするものの、スタインモアという地名やマッカスについては記していない[39]。
さらに『ヒストリア・ノルベジエ』はこれらとは異なる伝承を伝える。同書によれば、エイリークはノーサンブリアを追われた後、ヒスパニアへのヴァイキング遠征に出て、そこで戦死した[23][11][36]。したがって、中世史料には、追放されたエイリークが北イングランドのスタインモア付近で殺害されたとする伝承、イングランドで大規模な戦闘に敗れて戦死したとする伝承、ヒスパニアへの遠征中に死亡したとする伝承が併存している[38][39][36]。
エイリークの没年は一般に954年とされるが、その具体的な死亡状況については後世の史料の相違が大きい。歴史家クラウス・クラーグも、エイリークの晩年について後世の王のサガの叙述が互いに大きく食い違うことを指摘している[1]。
グンヒルドと子女
エイリークと妻グンヒルドの子女については、中世史料によって伝えられる人数や名前が一致していない。『ヘイムスクリングラ』所収の『ハーラル美髪王のサガ』は、2人の間の子として長男ガムリ、グットルム、ハーラル、ラグンフレズ・エイリークスソン、娘ラグンヒルド、エルリング、グズルーズ、シグルズ・スレーヴァを挙げている[41]。ただし、現代の研究では、最初に挙げられる「ガムリ」と「グットルム」は別人ではなく、「老いたるグットルム」(Guttorm gamle)という1人の人物が伝承の過程で2人に分けられた可能性も指摘されている[42]。
一方、『ヒストリア・ノルベジエ』はグンヒルドとの間に6人の息子が生まれたとし、ハーラル灰衣王、ガムリ、シグルズ、グンロズ、エルリング、ゴルムの名を挙げる[43][11]。この名簿は『ヘイムスクリングラ』のものとは一致せず、エイリークの子供の正確な人数や系譜には不確実な点が残る[42]。
娘ラグンヒルドについては『ヘイムスクリングラ』にも名が挙げられ、後世の伝承ではエイリークの死後、グンヒルドと息子たちがオークニー諸島を離れる際に、オークニー伯トルフィン・トルフ=エイナルソンの子アルンフィン・トルフィンソンと結婚したとされる[41][44]。『オークニー諸島人のサガ』はその後のラグンヒルドについてさらに詳しい物語を伝えるが、こうした叙述はいずれもエイリークの時代から数世紀後に成立したサガに基づく[45][27]。
エイリークの息子たち
エイリークの死後、グンヒルドと息子たちはノルウェー王位をめぐってエイリークの異母弟ホーコン善王と争った[42][46]。後世の王のサガによれば、グンヒルドと息子たちは一時オークニー諸島を拠点としたのちデンマークへ移り、950年代にはデンマーク王ハーラル青歯王の支援を受けてノルウェーへの遠征を繰り返した[42]。グンヒルドがゴーム老王の娘であったとする伝承に従えば、ハーラル青歯王はエイリークの息子たちの母方の伯父にあたる[47]。
この抗争の過程で、エイリークの息子たちはたびたびホーコンの軍勢に敗れ、ガムリなどが戦死したと伝えられている[46][48]。960年または961年頃のフィチャルの戦いでは、ホーコン軍がエイリークの息子たちとデンマーク軍を退けたものの、ホーコン自身も戦闘で致命傷を負い、その後まもなく死亡した[49]。その結果、ハーラル灰衣王を中心とするエイリークの息子たちがノルウェーの王権を掌握した[42]。
エイリークの息子たちはハーラル灰衣王を中心に共同で王号を帯びたとされ、西ノルウェーを中心に支配した一方、ヴィーケンではハーラル青歯王の宗主権を認めていたとみられる[42]。『ヘイムスクリングラ』は、この時期のグンヒルドが息子たちとともに国政に深く関与し、「王母」(kongsmor、諸王の母)と呼ばれたと伝えている[50][47]。ただし、サガがグンヒルドを息子たちの強硬な統治を操る人物として描く点については、後世に形成された彼女の否定的な人物像を反映している可能性が指摘されている[47]。
サガにおける人物像
エイリークの人物像は、とくに13世紀に成立した『エギルのサガ』や王のサガの影響を強く受けて後世に形成された。歴史家クラウス・クラーグによれば、エイリークを抑圧的な王として描く傾向は『エギルのサガ』でとりわけ顕著であり、これは主人公エギル・スカラグリームスソンと王との敵対関係を反映している[1]。エギルに帰せられる詩では、エイリークは「民衆を抑圧する者」「法を破る者」として非難され、グンヒルドが王の違法な行為を促したとする表現もみられる[1]。一方で、同じエギルに帰せられる『ホーヴズローズン』(「首代」)はエイリークを戦場での勇猛な王として称揚しており、エイリーク像は作品の文脈と詩の目的によって大きく異なる[51]。
エギル・スカラグリームスソンとの対立
『エギルのサガ』では、エギルとエイリーク夫妻との対立が長い物語として描かれている。エギルは王の家臣らとの争いを経てエイリークの怒りを買い、のちにはエイリークとグンヒルドの息子ラグンヴァルドを殺害したとされる。ノルウェーを去る際には、馬の頭を棒に掲げたニーズストングを立て、エイリーク王とグンヒルド王妃、さらに彼らを受け入れる土地の守護霊に対する呪詛を行ったと同サガは伝える[52]。
物語の後半では、エギルはイングランドへ向かう途中に難破し、エイリークとグンヒルドがいるヨークへ入る。サガのエイリークは、エギルが自らの一族や家臣を殺したことを理由に死刑を宣告しようとし、グンヒルドも即時の処刑を求めるが、エイリークの側近アリンビョルン・ヘルセの仲介によって処刑は翌朝まで延期されたとされる[53]。アリンビョルンの勧めを受けたエギルは一夜でエイリークを讃える詩『ホーヴズローズン』を作り、翌朝これを王の前で詠唱した。エイリークは詩を聞いたのち、和解そのものは拒みながらもエギルの生命を助け、自らの支配領域から立ち去ることを認めたとサガは語る[54]。
このヨークでの「首代」の物語については、サガの散文叙述をそのまま10世紀の出来事として扱うことはできないものの、詩そのものには別の問題系がある。古ノルド文学研究者Matthew Townendは、現存する『ホーヴズローズン』の真正性には長い論争がある一方、エギル作とされる別の長詩『アリンビャルナルクヴィザ』も、エギルがヨークでエイリークに対して「首代」の詩を捧げたという伝承を伝えていると指摘している[55]。Townendは、現存する『ホーヴズローズン』を10世紀作品とみなすことにはなお検討の余地があるとしつつ、ヨークを舞台とするエイリークとエギルの詩的伝承が後世のサガ散文だけに依存するわけではない点を重視している[55]。
『エイリークルの言葉』と死後の表象
エイリークの死後を題材とする古ノルド語詩として、『エイリークルの言葉』(Eiríksmál)が伝わっている。作者は不詳であり、現存するのは9節のみである[56]。13世紀前半頃に成立した『ファグルスキンナ』は、エイリークの死後、妻グンヒルドが亡夫を称えるためにこの詩を作らせたと伝えており、現存する中世の王のサガのうち『エイリークルの言葉』を引用するのは同書のみである[1][57]。
詩では、エイリークは戦死後にヴァルハラへ迎えられる王として描かれる。オーディンはエイリークの到来を予感し、エインヘリャルを起こして宴席を整えさせ、ワルキューレに酒を運ばせる[56][58]。大きな物音を聞いたブラギが、死んだバルドルが帰還するのかと問いかけると、オーディンはエイリークが自らの館へ来るのだと答え、英雄シグムンドとシンフィヨトリに彼を迎えるよう命じる[56]。
シグムンドが、なぜ他の王以上にエイリークの到来を待ち望んでいたのかと尋ねると、オーディンはエイリークが多くの土地で剣を血に染めたためだと答える[56]。さらに、これほど勇敢な王になぜ勝利を与えなかったのかと問われると、オーディンは「灰色の狼」が神々の住居を襲う時がいつ来るか分からないという趣旨の返答をする[56]。これはフェンリルとラグナロクを示唆する表現と解されており、エイリークは来たるべき神々の戦いに備えてヴァルハラへ迎えられた戦士として称揚されている[57][59]。
詩の末尾では、シグムンドから同行者について尋ねられたエイリークが、自分のほかに5人の王がともに来たと答える[56]。現存部分はここで途切れており、この5人の名は詩そのものには保存されていない[56]。後世の『ヘイムスクリングラ』がエイリークとともに5人の王が戦死したと伝えることとの対応がみられるものの、同書に挙げられる個々の人物名が『エイリークルの言葉』の失われた部分にも存在したかどうかは確認できない。
『エイリークルの言葉』はオーディン、ヴァルハラ、ワルキューレ、ラグナロクといった北欧の異教的な神話世界を用いてエイリークを称揚している[56][57]。一方、後世の『ヘイムスクリングラ』や『ヒストリア・ノルベジエ』は、エイリークがイングランドで洗礼を受けたと伝えている[22][11]。このように、エイリークを異教的な死後世界に迎えられる王として描く詩が伝わる一方、後世の散文史料にはエイリークが洗礼を受けたとする伝承も存在する。
この詩の成立年代と真正性については議論がある。一般にはエイリークが死亡した954年頃の作品とされ、『ハーコンの言葉』を作ったエイヴィンド・スカルダスピッリルが『エイリークルの言葉』を模倣したとする見方が広く採られてきた[57][60]。これに対しクラーグは、『エイリークルの言葉』を引用する王のサガが『ファグルスキンナ』のみであることなどから、現存する詩が真正の10世紀中葉の作品ではなく、エイリークの異母弟ホーコン善王を讃えた『ハーコンの言葉』を模して後世に作られた可能性を指摘している[1]。したがって、この詩をエイリークの死後直後に成立した同時代史料として用いることには慎重さが必要である[1]。
史料
エイリークの生涯を伝える史料は、その成立年代と性格によって大きく異なる。とくにノルウェーにおける前半生については同時代の散文史料がほとんどなく、12世紀後半以降に成立したノルウェー王統史や13世紀の王のサガが主要な叙述史料となる。一方、ヨーク王としての活動については『アングロサクソン年代記』や同時代の貨幣など、出来事により近い史料が残されている[1][35]。
英語史料と貨幣
エイリークのヨーク支配を伝える主要な叙述史料は『アングロサクソン年代記』である。同年代記は、10世紀半ばのノーサンブリアにおけるエドレッド王への忠誠と反乱、エイリークの受け入れ、948年のエドレッドによる遠征、952年のエイリークの復位、954年の最終的な追放を記録する[28]。ただし、同年代記はこの人物を「エイリーク」または「ハーラルの子エイリーク」とするのみで、ノルウェー王ハーラル美髪王の子であったことや、以前ノルウェーを支配していたことは記していない。このことは、ヨーク王エイリークとエイリーク血斧王を同一人物とみなす際の史料上の問題となっている[24]。
文献史料とは別に、ヨークでは「ERIC REX」の銘をもつエイリーク王名義の銀貨が鋳造されている[29]。貨幣研究者マーク・ブラックバーンは、これらの貨幣をヨーク王権の年代を検討する重要な証拠として用いる一方、貨幣史料だけからエイリークの統治を従来どおり2期に分けるべきか、一続きの治世とみるべきかを確定することはできないとしている[32]。
エイリークの死については、『アングロサクソン年代記』は954年の追放までしか記さない。その後にエイリークが殺されたとする記事は、12世紀頃の北イングランド系年代記や、さらに後代のロジャー・オブ・ウェンドーヴァーなどに現れる[38]。
スカルド詩
エイリークに関係する古ノルド語詩も伝えられている。とくに「血斧」(blóðøx)という異名は中世の韻文資料にも記録されており、その由来について『アグリプ』は兄弟殺害、『ファグルスキンナ』は西方へのヴァイキング遠征に結びつけている[18]。
また、エイリークの死後を描く『エイリークルの言葉』(Eiríksmál)が9節伝存している[56]。同詩を10世紀中葉の作品とし、エイヴィンド・スカルダスピッリルの『ハーコンの言葉』に影響を与えたとする理解がある一方、歴史家クラウス・クラーグは、現存する『エイリークルの言葉』が後世に『ハーコンの言葉』を模倣して成立した可能性を指摘している[1]。
ノルウェー王統史と王のサガ
エイリークのノルウェーにおける生涯を詳しく伝える最古層の散文史料は、主として12世紀後半に成立したノルウェー史書である。ラテン語で書かれた『ヒストリア・ノルベジエ』は、現在の研究ではおおむね12世紀中葉から後半に成立したと考えられており、ハーラル美髪王以後の王統を簡潔に記す[61]。同書はエイリークをハーラルの子とし、グンヒルドをデンマーク王ゴームの娘とするほか、イングランドへの亡命、洗礼、ノーサンブリア統治、さらにヒスパニアでの死という独自の伝承を残す[23][11]。
修道士テオドリクスのラテン語史書『ノルウェー古代列王史』は1177年以後、1188年以前に成立した[62]。同書はエイリークをハーラルの後継者とし、兄弟を殺したため「兄弟の破滅」を意味する異名を得たと述べ、ホーコンの帰国後にイングランドへ渡ってそこで死ぬまで暮らしたと伝える。またノルウェーでの統治期間を3年としており、他の初期王統史とは年数が一致しない[63]。
古ノルド語による簡潔なノルウェー王統史『アグリプ』は1190年頃に成立したと考えられている[64]。『アグリプ』はエイリークの「血斧」という異名を兄弟殺害に由来するとし、父との共同統治を含めた在位期間についても独自の数字を伝える[18]。『ヒストリア・ノルベジエ』、テオドリクス、『アグリプ』の三書はしばしば初期ノルウェー史学の「概説史」群として比較されるが、それぞれの関係や共通資料については研究上なお議論がある[61]。
13世紀になると、より詳細な王のサガが編纂された。『ファグルスキンナ』は1220年代、『ヘイムスクリングラ』は1230年頃の作品であり、後者は前者を含む先行する王統史やスカルド詩など広範な材料を利用したと考えられている[65]。これらは、エイリークのヴァイキング遠征、兄弟との抗争、グンヒルドとの出会い、ホーコン善王との争い、イングランドへの亡命と死などについて、初期の概説史よりはるかに詳細な物語を伝える。しかし、出来事から約3世紀後に成立した史料であり、同じ事件についても相互に異なる伝承を含んでいる[1]。
13世紀前半に成立したと考えられる『エギルのサガ』でも、エイリークとグンヒルドは主人公エギル・スカラグリームスソンの敵対者として重要な役割を占める[66]。同サガは10世紀を舞台とし、エイリークに関係する詩を伝える一方、その散文叙述は13世紀アイスランドの文学的・政治的環境の中で形成されたものである[67][66]。
クラーグは、エイリークについて比較的確実に確認できる事柄は限られており、とくにノルウェーにおける活動の細部は12世紀から13世紀に成立した史料に大きく依存すると指摘している[1]。