キューバの裕福な商人ルシアン・サンペドロ・イ・オセーホと妻エデルミラ・ロバト・イ・トゥッロの間の娘。母方従兄のホルヘ・マニャーチュ・イ・ロバト(英語版)は高名な知識人(評論家)・弁護士・閣僚(外相)経験者であった。
アストゥリアス公はスイス・ローザンヌのサナトリウムで持病の血友病の療養をしている際に、同市の映画館でエデルミラと出会った。王子の父であるスペイン王アルフォンソ13世はじめスペイン王室の全員が王子とキューバ人平民との恋愛関係に猛反対した。王は滞在中のパリからローザンヌへ使者を送り、王子の毎月の生活費を大幅に減らし、与えていた5台の自動車を没収し、エデルミラと結婚する気なら王位継承権を放棄させると宣言した。王子は父王に対し、心身ともに健康な三弟フアン王子に王位継承者の地位を譲りたい旨を伝えた。1933年6月11日、アルフォンソは王位継承権を放棄し、聾唖の障害のあった次弟ハイメ王子も継承権放棄を余儀なくされた。
10日後の1933年6月21日、ローザンヌ・ウシー(英語版)地区のサクレ=クール教会(Eglise du Sacré Coeur)で、2人は結婚した。スペイン王室のメンバーは誰も式に出席せず、王子が招待状を送った友人たちも大半が出席を断った。アルフォンソは継承権放棄後、喪失したアストゥリアス公の代わりにコバドンガ伯の儀礼称号を王室から与えられたため、エデルミラもコバドンガ伯爵夫人を称した。
2人の結婚生活はアルフォンソの血友病と、エデルミラの激しい嫉妬のせいで全くうまくいかなかった。夫婦は短期間に喧嘩別れと仲直りを繰り返して疲弊した。1937年までに、エデルミラは夫が不貞に走っていると非難し、ハバナで離婚を申請した。アルフォンソもまたニューヨークで婚姻の無効を訴え、2人の離婚は1937年5月8日に成立した。離婚から1か月も経たない1937年6月3日、アルフォンソはエデルミラが指摘した不倫相手のキューバ人モデル、マルタ・ロカフォルト・イ・アルトゥサッラ(英語版)と再婚するが、数か月で破局する。そして翌1938年9月6日、王子はマイアミで自動車事故に遭い死亡した。
エデルミラはその後再婚することなく、メディアのインタビューにも一切応じることなく、ハバナで私人として静かに暮らした。1950年代にキューバ革命が発生するとキューバを出国し、米国フロリダ州コーラルゲーブルズカディマ通り722番地(722 Cadima Avenue)の家を買い、死ぬまでこの家で暮らした。結婚時の冷遇とは裏腹に、スペイン王室はエデルミラをアルフォンソの(教会法上の)未亡人として丁重に扱い、コバドンガ伯爵夫人の称号の継続使用も認めた。王子の母ビクトリア・エウヘニア王妃は1969年死去した際、遺言でエデルミラに自身の宝飾品を何点か遺贈した。
1975年スペイン王政復古から10年後の1985年、アルフォンソの遺骸がマイアミのカヴァレッロ・リヴェロ・ウッドローン公園北墓地・霊廟(英語版)から、エル・エスコリアル修道院内の王子廟(スペイン語版)に再埋葬されることになった。王子の甥であるスペイン王フアン・カルロス1世は、エデルミラをスペインでの再埋葬式に招待したが、すでに80歳を過ぎていた彼女は出席を辞退した。