キューバ革命
1959年キューバで行われた社会主義革命
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概要
アメリカ合衆国からの支援、庇護をうけた軍事政権への反発は既に1950年代前半よりみられており、1953年にもカストロらは蜂起していたが、この頃は革命勢力の結束が弱く失敗に終わった。
1958年になると反政府各派の共同戦線が結束され、1959年1月1日にハバナ占領を果たして革命政権が成立した。キューバ革命は、当初より社会主義革命を志向したわけではなく、政権獲得直後にはアメリカ合衆国との関係継続を目論んだ交渉も模索していた。
しかし、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と、その後を1960年に継いだジョン・F・ケネディ大統領はカストロら新政府を「容共」であるとみなし、ケネディ大統領は政権を打倒すべくピッグス湾事件を起こした。これによりアメリカ合衆国との関係回復が不可能であると判断すると、ソ連への接近を鮮明にし、1961年に社会主義宣言を示して、キューバ革命を社会主義革命として位置づけた。
前史

1898年に起きた米西戦争でスペインに勝利したアメリカ合衆国は、同年のパリ条約でキューバ独立をスペインに認めさせた。しかし、1901年のプラット条項[1]によってキューバを事実上の保護国とすると、その後もたびたび内政干渉を繰り返した。
この様な状況下で、1903年2月23日にグアンタナモがアメリカの軍事基地となり、「アメリカ合衆国の裏庭」と化していたカリブ海において、キューバは戦略的に重要な位置を占めていた。さらに、アメリカへの経済的従属も進み、砂糖やバナナなどの商品作物の供給地として必要不可欠な島となっていった。
1934年にフランクリン・ルーズベルト大統領のもとでプラット条項は廃止されたが、アメリカは親米政権をキューバにおいて維持させることを国是としており、活発な投資活動が続いていた。さらに第二次世界大戦ではグアンタナモ基地がドイツの潜水艦に対する基地として活用されるなど、軍事的にもキューバはアメリカと切っても切れない関係となっていった。
こうした中、第二次世界大戦後の1952年に軍事クーデターによって政権を獲得したフルヘンシオ・バティスタも、これまでの政権同様に親米政策をとりアメリカからの援助をうけつつ独裁体制の強化を図ったが、共産主義の影響を受けた学生組織や左翼組織による反バティスタ運動が高揚していた。
反乱

1953年7月26日、若者を主体とする123人の反バティスタグループが、オリエンテ州(当時)のサンティアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営を攻撃した (7月26日運動)。しかし、僅かなミスから奇襲は失敗し、政府軍に包囲されてしまう。彼らの一部はその戦闘で死亡し、生存者も程なくして逮捕されたが、政府軍は逮捕者の多くを見せしめとして虐殺した。
しかし、弁護士フィデル・カストロとその弟ラウル・カストロらのリーダー格は、高度に政治的な裁判にかけられた。フィデル・カストロは裁判上で「歴史が私に無罪を宣告するであろう」と演説を展開したが、判決では15年の刑期が宣告された。
ほかの者も一様に長い刑期を宣告されピノス島(現・青年の島)にあるモデロ刑務所に収監された。1955年の選挙の後、5月にバティスタは恩赦でモンカダ兵営襲撃犯を含む政治犯をすべて解放した。
M26

カストロ兄弟は程なくメキシコに亡命、同じ境遇の追放キューバ人を糾合し、再度バティスタを倒すために戦う準備を行った。このときカストロが組織した集団はモンカダ襲撃の日を取って「7月26日運動」(M26)と呼ばれる。
メキシコ潜伏中にカストロはアルゼンチン人で放浪好きな医師チェ・ゲバラに出会う。ゲバラは彼らの軍隊に加わった。メキシコでゲリラ戦の訓練を行った彼らは1956年11月、現地調達した8人乗りのプレジャーボート「グランマ号」に、合計82名で乗り込みメキシコを出発した(グランマ号上陸作戦)。
1956年12月2日、カストロら82名はキューバ東海岸に上陸[2]。カストロは、事前に報道機関等にキューバへ戻ることを公言していたため(キューバにいる同志の呼応をねらった)、祖国に上陸した途端、たちまちバティスタ軍に包囲され多くの仲間を失ってしまう。何名が生き残ったかに関しては論争となっているが、12名を残して全てが上陸後の最初の戦闘で殺されるか捕らえられるかした。捕らえられたゲリラのうちの数人は特別裁判の後処刑された。カストロ兄弟及びゲバラは生存メンバーであった。残った12人はキューバ東南部のマエストラ山脈に逃げ込みゲリラ活動を開始する。なお、彼らの上陸した場所の付近は当時オリエンテ州の一部であったが、後に「グランマ州」と名づけられた。
グランマ号上陸作戦で敗走して山で点呼を取っていたゲバラの前で「これだけ生き残ればバティスタの野郎もおしまいだ!」と意気揚々に語っていたフィデル・カストロを見たゲバラは、最初絶望の余りフィデルの気が触れたのではないかと心配したが、これはフィデルがアメリカのマスコミ・世論を味方に付けるための布石であり、フィデルは1957年にアメリカ人ジャーナリストからのインタビューを受け、それが「シエラからの報告」としてニューヨーク・タイムズに掲載され、アメリカ人は革命軍に同情や好意を抱くようになった。アメリカ政府はバティスタ政権への武器の禁輸を決定するも。その後も反バティスタグループはゲリラ戦を2年間に渡って続けた。
革命成功

1958年に革命軍は攻撃を始めた。彼らは「カラム(columnas)」と呼ばれた2つの部隊に別れて進軍した。片方のカラムであるオリエンテ州(現在、サンティアゴ・デ・クーバ、グランマ、グアンタナモおよびオルギンの4州に分割されている)の4つの前線はフィデル・カストロ、ラウル・カストロおよびフアン・アルメイダによって指揮された。もう一方のカラムはチェ・ゲバラおよびカミロ・シエンフェゴスの指揮下にあり、西方と首都ハバナへ進軍した。
カミロはヤガイェイの戦いで大きな勝利を収め、「El heroe de Yaguajay」(ヤガイェイの英雄)と呼ばれるようになった。またゲバラの部隊もサンタ・クララでの決戦で勝利を勝ち取った。この戦いはオリエント州軍への増援部隊と物資を載せた列車を停止させたことで有名である。ゲバラとカミロの部隊はハバナ入城時にコロンビア兵営(現在「シウダ・リベルタ(Ciudad Libertad, 自由都市)」と呼ばれる)とラ・カバナ(現在「モロ」と呼ばれる)を占領した。
政府軍の敗北が決定的となった1958年12月31日夜、バティスタはコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日、クバーナ航空機でキューバを脱出し、独裁者のラファエル・トルヒーヨ率いるドミニカ共和国へ亡命した。数時間後、政府軍の将軍カンティーヨが「臨時政府」の成立を宣言したが、カストロはこれを認めずカミロにハバナ突入を命じた。まもなくハバナは革命軍が制圧し、8日にはカストロがハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。
革命政権成立後
キューバ共和国基本法の成立
革命政府の臨時大統領にはマヌエル・ウルティナ・ジェオ、首相にはハバナ大学の教授であったホセ・ミロ・カルドナ、キューバ軍の最高司令官にはカストロが就任した[3][4]。当時キューバのマルクス・レーニン主義政党である人民社会党は政府外から革命政府に協力する旨を表明しており、革命政府は7月26日運動の指導者によって運営されていた[5]。一方でカストロの弟のラウル、幹部のチェ・ゲバラは人民社会党員であった[6]。
2月、キューバ革命政府は憲法となるキューバ共和国基本法を成立させた[7]。これは1940年のキューバ憲法の改正であり、1940年憲法も依然として効力を持っていた[8]。基本法は第24条の国民財産の条項を修正し、「財産の没収は禁止される」としながらも「1958年12月31日打倒された独裁者(バティスタ)及び協力者の財産」や「国家経済若しくは国家財政に対する犯罪に責任のある個人もしくは法人の財産」、革命政府が反革命的であるとした個人の財産についてはその適用外であるとした[9]。カストロは1953年の弁論「歴史は私に無罪を宣告するであろう」の中で、公共資産の横領者の資産没収と、電話・電力会社の国有化を主張していた[9]。
同月には不正取得財産回収省が設置され、不正取得財産没収法が成立した。この法律は後のアメリカ財産国有化の根拠法令となった[9]。また2月16日には親米派のカルドナは罷免され、カストロ自らが首相に就任した[4][10]。
アメリカとの関係悪化

アメリカ政府は革命直後の1月7日に革命政府を承認していたものの、カルドナ首相の罷免は警戒感を与えた[4]。またアメリカの資本はキューバ国内に巨大な資産を有していた[11]。当時キューバの産業はほとんどサトウキビ栽培と製糖というモノカルチャー経済であったが、アメリカ企業は製糖工場の3分の1を保有し、生産額の40%を占めていた。また電話・電力会社の90%、軽工業・鉄道の50%がアメリカ資本であった[11]。ただしカストロは1957年の段階で外国資本の国有化を否定しており、電話・電力会社以外の国有化の構想を持っていなかった[3]。
カストロは「アメリカ合衆国に対して変わらず友好関係を保つ」と表明していた。4月15日から26日にかけて、カストロはアメリカ新聞編集者協会の招待でワシントンD.C.を訪問した[4]。
しかしアイゼンハワー大統領はジョージア州でのゴルフを優先してカストロと会おうとせず[4]、代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領とも短時間の面会程度に終わらせられるなど、あからさまな冷遇を受けることとなる。
カストロの帰国後、革命政府は5月17日に農地の接収を含む農地改革法の施行を発表した[4]。接収の代償は20年払いの政府債権であり、大損害を受けたアメリカ政府からの大きな反発を受けることとなった。また7月にはウルティナ大統領が辞任し、カストロの支持者オスバルド・ドルティコス・トラドが大統領となった[3]。
さらに弟のラウル・カストロ国防大臣にソビエト連邦の首都のモスクワを訪問させ、アナスタス・ミコヤン第一副首相をハバナに招請するなど、冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソビエト連邦との接近を開始。アメリカ合衆国本土の隣国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受け、アメリカ合衆国は共産主義国家の脅威を間近で感じることになった。
その後もキューバとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1960年1月にはユナイテッド・フルーツの農地の接収を実施したほか、2月にはソ連のミコヤン第一副首相のハバナ訪問を受け入れ、ソ連との砂糖と石油の事実上のバーター取引や借款の受け入れ、さらにソ連からの武器調達の取引に調印した[6]。しかし砂糖の引き渡し価格は国際価格より安く、借款はソ連製品の購入にしか使えないものであり、キューバはソ連経済への依存を強めることとなった[6]。
アメリカとの対立と社会主義化

4月には早くもソ連のタンカーがキューバの港に到着し、5月8日には両国間で正式な外交関係が成立した[6]。6月にはアメリカ国防省の指示で原油の精製を断ったアメリカの石油工場を接収した[12]。アメリカはこれに対抗してキューバへの石油輸入の阻止に動いた[12]。
さらにユナイテッド・フルーツやチェース・マンハッタン銀行、ファースト・ナショナル・シティ銀行をはじめとするアメリカ合衆国の政府や企業、国民が所有する全てのキューバ国内の資産の完全国有化を開始するとともに、穏健的なルフォ・ロペス大蔵大臣の更迭(その後アメリカに亡命)など、キューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。
さらに9月にカストロは自ら国連本部で開催される国連総会に出席すべくニューヨークを訪問したものの、これに対してアメリカ政府は外交的には全く無意味どころか、反発されるだけの極めて幼稚な子供じみた嫌がらせをしている。キューバ代表団のマンハッタン外への外出を禁止し、乗ってきた飛行機を没収(この為帰りはソ連の飛行機で帰った)。さらに宿泊予定のホテルは法外な「補償金」の支払いを要求するなどの手段を取った。その為、国連本部の芝生で、テントを張り寝泊まりする羽目になった。その後ハーレムにある安ホテルに移動したカストロは、ホテルを訪問したフルシチョフと会談し、さらに26日には国連総会において4時間29分に渡る長時間の演説を行いキューバ革命の意義を自画自賛するとともにアメリカを非難した。
こうした動きに対して、アメリカ合衆国は厳しい態度で臨んだ。アイゼンハワー政権は対抗策としてキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切り、1961年1月3日にはキューバに対して国交断絶を通告した。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。
さらにアイゼンハワー大統領は、亡命キューバ人を組織、訓練して、この革命政権を軍事力で打倒しようと図った。1961年よりアメリカ大統領になったジョン・F・ケネディは、この作戦を継承して、同年4月にピッグス湾事件を起こすが失敗に終わった。
これを受けて革命政権は、5月に社会主義革命宣言を発し、キューバ革命を「社会主義革命」として位置づけた。これ以降、ソ連や東ドイツ、ポーランドなどの東側諸国との関係は強化されることとなった。1964年12月にはチェ・ゲバラが、国連総会でアメリカを非難しソ連の支援を求める演説を、合言葉“祖国か、死か!”の紹介と共に、主席として行なっている。
粛清
革命政権の粛清や、資本主義経済の放棄を嫌った人々はアメリカ合衆国に逃れたが、キューバ国内ではバティスタ政権下の警官及び兵士が、殺人と拷問を含む人権侵害及び戦争犯罪で裁判にかけられた。殺人で有罪判決を受けた者達500人以上のほとんどが銃殺され、残りは長い懲役刑を宣告され収監された。チェ・ゲバラはラ・カバナの最高検察官に任命された。これらはカストロによる反革命活動勢力、バティスタ忠誠者達を浄化する試みの一部であった。他に多くの者が警察及び軍から解任され、旧体制の数人の高官は追放された。これに加えて革命政府は反体制派の追放政策を行った。
彼らの多くは弁護士、目撃者および参加社会の人々(彼らの多くは検察官の求刑よりも重い刑を頻繁に要求し、しばしば残忍な要求を行った)を交えた裁判の後処刑された。更に超法規的な処刑も行われた。最も悪名高いものは、サンティアゴ・デ・クーバの占領後にラウル・カストロによって指揮されたバティスタ政権兵士の捕虜70名以上の処刑である。
1961年5月に、革命統一機構(ORI)はフィデル・カストロのM26、ブラス・ロカによって率いられた人民社会党(PSP, 旧キューバ共産党)、ファウレ・チョモーンによって率いられた3月13日革命指令の合併によって形成された。1961年7月26日、ORIはキューバ社会主義革命統一党(PURSC)になり、1965年10月1日にキューバ共産党と名称を変えフィデル・カストロが第一書記(党首に相当)に就任した。
ソ連崩壊後の苦境
この措置により経済的窮地に陥ったキューバは、当初は友好国であるソ連や東ドイツなどの東側諸国とのバーター貿易(砂糖と石油、工作機械、兵器などを交換する事実上の経済的支援)により窮地を凌いだ。特に冷戦が激化した1960年代から1970年代にかけては様々な形での支援を受けた。
この間もアメリカをはじめとする西側諸国や軍事独裁政権がその多くを占める南アメリカ諸国との関係断絶は続き、わずかにメキシコやカナダを通じた人的交流が行われるにすぎなかった。さらに冷戦終結直後の1991年のソビエト連邦の崩壊後にソ連を継いだロシアは経済的困難に陥っていたために、これまで行っていた砂糖と石油のバーター取引をはじめとするキューバに対する様々な支援を減らし、キューバ経済は苦境に立たされた。
現在

冷戦終了後には南アメリカの多くの国ではアメリカ合衆国の支援を受けていた反共軍事政権の多くが崩壊し、その多くが1990年代にキューバとの国交回復を成し遂げた。また国力が回復しアメリカに対して強硬的な立場に出るようになったロシアのウラジーミル・プーチン政権が急速にキューバとの関係を回復し、冷戦下のレベルではないものの再び経済的・軍事的にキューバを支援するようになってきた。
この他にも2000年代に入りベネズエラやボリビアなどに成立した反米政権が「中南米における反米連合の盟主的存在」であるキューバとの事実上の同盟関係を持ち、様々な形でキューバに対する支援を行っている。さらに中華人民共和国がキューバへの支援と引き換えに軍港の使用を求めるなど、反米諸国がキューバとの関係を深めていった。このような状況でカストロが健康状態の悪化を受けて2008年2月に国家評議会議長(事実上の元首)の座を降り、その座を弟のラウル・カストロが引き継いだ。ラウルは2021年に第一線を退いたものの、その路線は継続している。
2009年にアメリカ大統領に就任したバラク・オバマの時代には両国関係の改善が見られた。両国は水面下で行われていた接触を公式なものに引き上げ、次いでカストロとオバマが国際会議の場で挨拶を交わすなど関係の修正をアピールした。さらに2015年に入りアメリカと国交を回復し、相互の大使館が同年7月に開設された。しかし大使館職員のハバナ症候群問題の発生など、状況は完全に正常化したわけではなかった。
しかしドナルド・トランプ政権はキューバに対して強硬な政策を取っており、2025年に開始された第二期政権以降は両国間の関係は緊張化している。