エドワード・スタンリー (第3代ダービー伯爵)
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| エドワード・スタンリー Edward Stanley | |
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| 第3代ダービー伯 | |
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| 在位 | 1521年 - 1572年 |
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| 出生 |
1509年5月10日ごろ |
| 死去 |
1572年10月24日(63歳没) |
| 配偶者 | キャサリン・ハワード |
| ドロシー・ハワード | |
| 子女 | 本文参照 |
| 家名 | スタンリー家 |
| 父親 | 第2代ダービー伯トマス・スタンリー |
| 母親 | アン・ヘイスティングス |

第3代ダービー伯エドワード・スタンリー(Edward Stanley, 3rd Earl of Derby, 1509年5月10日ごろ - 1572年10月24日)は、イングランド貴族、政治家。父の死後にマン島領主の地位を継承し、その後は息子が跡を継いだ。
エドワードは13歳で父である第2代ダービー伯トマスの爵位と財産を継承した。イングランド王ヘンリー8世はエドワードが成人するまで後見人をつとめた。トマス・ウルジー枢機卿を含む国王任命の委員たちがエドワードの諸事の大半を管理した。
1528年、エドワードはウルジー枢機卿のフランスへの使節に同行し、1530年にはヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚に関する宣言文を他の貴族と共に教皇クレメンス7世に提出した。
1532年、エドワードはヘンリー8世に同行してブローニュを訪れ、フランス王フランソワ1世と謁見した。この謁見の後、エドワードはバス騎士とされた。数年後、エドワードはリンカンシャーで始まりイングランド北部にまで広がった大規模な反乱(主に教会関連)である恩寵の巡礼の鎮圧に主要な役割を果たした。1542年、エドワードはノーフォーク公に同行してスコットランドへの襲撃を行った。
1547年、エドワード6世が即位すると、エドワードはガーター騎士となり、1550年にはスコットランドとフランスとの和平交渉に貴族の一人として出席した。1年後、主に聖職者制度改革への反対を理由に、様々な告発が行われた(証拠はほとんどなかった)。しかし、メアリー1世が即位すると、エドワードは再び寵愛を受け、大家令に任命され、枢密顧問官となった。エドワードはジェーン・グレイの裁判の委員を務め、異端の容疑者の裁判にも頻繁に立ち会った。エリザベス1世の治世下でも寵愛を受け、枢密院議員を務め続けた。最終的にエリザベス1世はエドワードをチェスター長官に任命した。
エドワード・スタンリーはレイサム・ハウスで亡くなり、長男ヘンリーが爵位を継承した。