エドワード・ラッセルズ (初代ハーウッド伯爵)
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エドワード・ラッセルズ(Edward Lascelles、1702年2月25日洗礼 – 1747年10月31日、ダニエル・ラッセルズの三男)と妻フランシス(1761年5月18日没、ガイ・ボールの娘)の次男として[4]、1740年1月7日にバルバドスで生まれた[5]。兄ヘンリーは1755年に17歳で亡くなった[4]。父はバルバドスで関税徴税人を務めたが、エドワードが7歳のときに死去した[4]。
1761年イギリス総選挙でノーザラートン選挙区から出馬して、無投票で庶民院議員に当選した[6]。ノーザラートンではラッセルズ家とピアース家(Peirse)が自治邑土地保有態様のほとんどを保有しており、選挙区を支配していたため、両家がそれぞれ1議席を指名していた[6]。このときはピアース家の当主が未成年だったため、2議席目もラッセルズ家が占有し、エドワードが当選した[6]。1768年イギリス総選挙でも無投票で再選したが、1774年イギリス総選挙ではピアース家が2議席目を取り戻し、エドワードは議員を退任した[6]。1度目の議員期では従兄(父の異母兄の息子)にあたるエドウィン・ラッセルズ(同じくノーザラートン選出の庶民院議員)と常に同じ立場をとり、庶民院で演説した記録はなかった[7]。
1790年イギリス総選挙ではエドウィンがハーウッド男爵に叙されたため[7]、代わりにエドワードが出馬して当選した[8]。2度目の議員期では1791年にスコットランドにおける審査法廃止に反対、1796年3月に奴隷貿易廃止に反対した[1]。
エドウィンに子女がおらず[4]、爵位が1代で廃絶することは明らかだったため、エドワードは1794年8月に首相小ピットに対しハーウッド男爵への叙爵を申請した[1]。1795年にエドウィンが死去すると、男爵位は廃絶したものの、遺産はエドワードが相続した[5]。そして、叙爵への内諾を得たエドワードは1796年イギリス総選挙で出馬せずに議員を退任[1]、以降ノーザラートンにおけるラッセルズ家の議席は息子エドワードとヘンリーが占めた[8]。1796年6月18日、グレートブリテン貴族であるヨーク州ハーウッドにおけるハーウッド男爵に叙された[5]。
男爵に叙された後は伯爵への昇叙を目指し、1798年5月と6月に小ピットに対し2度申請したものの、拒否されている[1]。1804年に第2次小ピット内閣が成立するとハーウッド男爵は再び伯爵への昇叙を申請、最終的にはリヴァプール伯爵内閣期に認められた[1]。1812年9月7日、連合王国貴族であるラッセルズ子爵およびヨーク州におけるハーウッド伯爵に叙された[5]。

