エドワード・ロイド (初代モスティン男爵)
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生い立ち
ベル・ロイド(Bell Lloyd、1729年8月25日[3] – 1793年5月6日、ウィリアム・ロイドの息子)と妻アン(エドワード・プライスの娘)の息子として、1768年9月17日に生まれた[4]。1777年から1785年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた[5]。
1795年のモンゴメリーシャーでの選挙活動
1794年2月にモスティン準男爵家の相続人と結婚し、1795年5月26日に祖父の弟にあたる初代準男爵サー・エドワード・ロイドが死去すると、準男爵位の特別残余権(special remainder)に基づき爵位を継承した[4]。これらの相続によりロイドはウェールズ政界で影響力を持つようになり[1]、その嚆矢となったのがモンゴメリーシャー選挙区での補欠選挙だった[1]。モンゴメリーシャーでは現職議員ウィリアム・モスティン・オーウェンが1795年3月に死去しており、有力者の第5代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンがフランシス・ロイド(エドワード・ロイドと無関係)を推薦したが、そのほかにもエドワード・ロイドを含め3人の候補が名乗りを上げた[6]。しかしもう1人の有力者である第2代ポウィス伯爵ジョージ・ハーバートもフランシス・ロイド支持を表明したため、フランシス以外の候補者が立候補を取り下げた[6]。
1796年総選挙におけるフリントシャー州長官
1796年から1797年までフリントシャー州長官を務め[4]、1796年イギリス総選挙では妻の兄弟にあたる第6代準男爵サー・トマス・モスティンの当選を助けた[7]。このとき、王座裁判所首席判事の初代ケニオン男爵ロイド・ケニオンが同名の長男ロイドを立候補させており、トマスを未成年(21歳未満)で被選挙権なしとして落とすつもりだった[7]。しかし選挙日になると、ケニオンの支持者はトマスが未成年である証拠を提出しそびれ、ロイドはこれを利用して、州長官としてトマスを候補者に承認した[7]。またモスティン家も対策を用意しており、もう1人の候補者ジョン・ロイド(John Lloyd)を用意した[7]。この結果、モスティンが52票を得て当選、ケニオンは10票を得て、選挙申立でモスティンの当選無効を勝ち取ることになった[7]。しかしジョンが30票を得たことで、1797年6月にモスティンの当選無効が宣告されたときにもケニオンが議席を得られず、モスティン以外の最多得票者たるジョンの繰り上げ当選が宣告された[7]。ジョンはその後、1799年に議席をモスティンに譲った[7]。
1797年から1798年までカーナーヴォンシャー州長官を務めた後[4]、1799年2月にフランシス・ロイドが死去したことで再び補欠選挙が行われた[6]。これを受けて、ロイドは2、3日ほど選挙活動をしたが、結局「二度と問題を起こさない」とウィリアムズ=ウィンに述べて撤退、ウィリアムズ=ウィンは自身の弟を推薦して無投票で当選させた[6]。
1804年から1805年までメリオネスシャー州長官を務めた[4]。
1806年と1807年の総選挙
1806年イギリス総選挙でフリント・バラ選挙区から出馬した[2]。州選挙区のフリントシャーでは前述の通り妻の親族(モスティン家)が議員を務めており、ロイドはモスティン家の後援を受けた[2]。フリント・バラの現職議員ワトキン・ウィリアムズは1777年よりフリント・バラで6選していたが、1806年の総選挙では引退を宣言し、6名の候補者が立候補した(うち3名が投票日までに撤退)[2]。ウィリアムズは第5代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンの支持を受けた人物であり、後任に5代準男爵の姉妹と結婚する予定のウィリアム・シップリー(William Shipley)を支持した[2]。シップリーは5代準男爵の母の弟にあたる首相の初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの支持も求めたが、第8代準男爵サー・スティーブン・グリンが突如立候補を表明して、自身の妻がグレンヴィルの妹にあたることを理由にグレンヴィルの支持を求めた[2]。2人ともに親族関係を理由に後援を求めたことで、グレンヴィルは中立を余儀なくされた[2]。こうして選挙はロイド、シップリー、グリンの3人が1議席を争うことになり、シップリーの支持者が最後になってシップリーの劣勢を認め、グリンを落選させるべくロイドに票を投じたことで、ロイド107票、グリン93票、シップリー64票となり、ロイドが庶民院議員に当選した[2]。
3人のうち、ロイドは唯一グレンヴィルとの親族関係を持たなかった人物だったが[2]、議会では(ほかの選挙区で議席を得た)シップリーと同じくグレンヴィル内閣を支持、内閣が倒れた後の1807年4月にもグレンヴィルを支持して投票した[1]。
ロイドは1807年イギリス総選挙で再選を目指し、グリンもほかの選挙区での立候補打診を辞退して、あくまでもフリント・バラからの選出にこだわった[2]。このときのフリント・バラは有力者の動向の「たられば」(ifs and ans)ですべてが決まると言われ、一例としてグリンはグレンヴィルの兄にあたる初代バッキンガム侯爵が親族の内紛を防ぐべくシップリーを説得して、立候補を取り下げさせることを期待した[2]。1806年と同じくロイド、シップリー、グリンの3人が立候補した場合、シップリーとグリンのうち劣勢な候補者が票をロイドに譲る可能性があった[2]。
グリンはさらにロイドの一騎討ちにシップリーかハメリン・トレローニーが後援することを期待した[2]。このほかにフランシス・プライス(Francis Price)も影響力を持つ人物であり、彼はシップリーかトレローニーの意向を見定めてから行動を決めるつもりだった[2]。しかしトレローニーは混沌とした情勢から利益を得ようとしており、兄の意見を待つという口実でプライスに先に決めさせ、自身の票の価値を上げるつもりだった[2]。また、シップリーの父が、シップリーが立候補しなかった場合にはロイドを後援すると表明した[2]。
1807年5月6日、シップリーはトレローニーの支持が得られれば立候補すると表明した[2]。7日、グリンはトレローニーがシップリーを支持するという情報を得て、ロイドがシップリーを支持しなければ、プライスの後援を得た自身がシップリーに競り勝てると計算した[2]。
この直後に情勢が明らかになり、トレローニーがシップリーを、プライスがグリンを後援した[2]。グリンは自身とシップリーが五分五分で、ロイドが劣勢であると判断したが、選挙日以前にロイドがシップリーを支持した場合には自身が当選する見込みがないとして撤退するつもりだった[2]。結局ロイドがシップリー支持を表明したのは投票が始まって数日後の5月20日であり、シップリー193票、グリン184票、ロイド121票でシップリーが当選した[2]。ロイドはカトリック解放への支持により敗北したと考えたが、『英国議会史』は1806年の当選があくまでも対立候補の内紛によると指摘した[2]。
ビューマリス選出庶民院議員
1807年10月、ビューマリス選挙区の現職議員である初代ニューバラ男爵トマス・ウィンが死去した[8]。ビューマリスは第7代バークリー子爵トマス・バークリーが掌握しており、次に当選させるべき人物について悩んだ[8]。彼はまずグリンに打診して断られた後、ロイドを当選させた[8]。
ロイドはこの時期にホイッグ党のブルックス・クラブに入り、議会演説はなかったものの採決でホイッグ党を支持した[1]。
フリント・バラ選出庶民院議員
グリンは二度の選挙で1万ポンドを費やしており、立候補を諦めると表明した[2]。しかしロイドはフリント・バラの議席をあきらめておらず、シップリーの父から「自身を半ば破滅させても」議席をもぎ取るつもりであると目された[2]。そこでシップリーの父は1811年10月にプライスがグリンを支持する予想したうえ、次期総選挙におけるシップリーとロイドの妥協を提案した[2]。2人のうちフリントでの支持率が高いほうはフリント・バラで、低いほうはビューマリスで当選するという提案だったが、プライスがロイドを後援したことで前提が崩れ、シップリー自身も財政難により立候補を諦めた[2](1820年に死去)。こうして、ロイドは1812年イギリス総選挙で三たびフリント・バラから出馬して、無投票で当選した[2]。その後、シップリー、グリン両家の継承者が若年だったこともあり、1818年、1820年、1826年、1830年、1831年の総選挙で再選した[2][9]。
フリント・バラでの地盤が固まった後もカトリック解放、選挙法改正、緊縮財政といったホイッグ党の政策を支持し続けた[1][5]。1820年から1821年にかけてキャロライン王妃をめぐる事件で王妃を支持し、1825年6月に窓税廃止を支持、1829年5月にダニエル・オコンネルが至上権承認の宣誓をせずに議員を就任することに賛成した[5]。1825年から1826年までカーディガンシャー州長官を務めた[4]。1831年にも第1回選挙法改正に賛成した[5]。
1831年4月17日にトマス・モスティンが死去すると、妻がその遺産を相続した[4]。これにより、1831年戴冠式記念叙勲の一環として、1831年9月10日に連合王国貴族であるフリントシャーにおけるモスティンのモスティン男爵に叙された[4]。
晩年
貴族院に移籍した後も第1回選挙法改正への賛成票を投じ続けた[5]。
1854年4月3日にデンビーシャーのボデルウィダンで死去[4]、スランロスの家族墓地に埋葬された[5]。息子エドワード・モスティンが爵位を継承した[4]。
家族と私生活
1794年2月11日、エリザベス・モスティン(Elizabeth Mostyn、1771年ごろ – 1842年11月26日、第5代準男爵サー・ロジャー・モスティンの娘)と結婚[4]、2男2女をもうけた[3][10]。
- エドワード・モスティン(1795年1月13日 – 1884年3月17日) - 第2代モスティン男爵[4]
- エリザベス(1796年8月19日[10] – 1873年7月22日[3])
- エセックス(Essex、1798年4月18日 – 1857年4月26日[10])
- トマス・プライス(1800年8月4日 – 1874年3月11日[3])
オックスフォードシャーのストラットン・オードリーに不動産を賃貸しており、普段はオックスフォードシャーに住むが、州の行事があるごとにフリントシャーに戻っている[5]。
投機と多額な選挙費用により財政難に陥り、領地売却をできるだけ回避しようとする姿勢もあって1844年と1853年に破産寸前に追い込まれている[5]。このうち、1853年には領地の価値が189,932ポンドで債務が192,300ポンドとされる[5]。
