エマ・ディタリー
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エマは、イタリア王ロターリオ2世とアーデルハイト・フォン・ブルグントの一人娘として948年頃に生まれた[3][4]。父は950年、政敵のイヴレーア辺境伯ベレンガーリオによって毒殺された。ベレンガーリオは、王国への権利を主張していたエマの母アーデルハイトを自身の息子と結婚させようとしたが、アーデルハイトはベレンガーリオに反抗し、代わりに神聖ローマ皇帝オットー1世と結婚し、オットー2世をもうけた[5][6]。
977年、エマは義弟である下ロレーヌ公シャルルから、ラン司教アダルベロンとの不貞の罪で告発された[7]。ランス大司教アダルベロンが率いるサント=マクル公会議によって王妃と司教は無罪となり、シャルルは西フランク王国からの亡命を余儀なくされた。エマは息子ルイ5世の王位継承を確実にするため、ロテールを説得して息子を共治王に即位させた。ロテールはこれに応じたものの、実権を握らせることは拒否した。
エマとロテールの結婚生活は、夫と異母弟のオットー2世の間に確執が見られ、互いに相手の領土を侵略し、しばしばロテールの弟である下ロレーヌ公シャルル(皇帝の臣下であった)を介して、互いの勢力を揺るがそうとした。しかし、980年以降、結婚生活の末期には、ロテールと義理の両親の間には平和が訪れ、オットー2世が死去すると、ロテールはオットー2世の息子オットー3世の後見人となった。
ロテールは986年3月2日に死去し、幼い息子ルイ5世が王位に就いた。しかし、ルイ5世はすぐにエマとラン司教アダルベロンを宮廷から追放し、ロテールを毒殺したと非難した。ルイ5世は987年5月22日、後継者を残さずに死去した。その後数ヶ月のうちに、義弟シャルルは王都ランを占領し、自ら王位を宣言した。ユーグ・カペーはアダルベロンの仲介により987年7月3日に選出され、戴冠した。この紛争でアダルベロンはシャルルをユーグ・カペーに引き渡し、その結果、最後のカロリング朝の男子継承者はオルレアンに幽閉された。
息子の死後、エマの動向は不明である。ブルゴーニュの修道院で亡くなったか、ボヘミア公ボレスラフ2世と結婚し、オルドジフという名の息子をもうけたと考えられている。