エルネスト・ブーランジェ
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ブーランジェはパリの音楽一家に生まれた。父のフレデリック・ブーランジェはチェリスト、パリ音楽院の歌唱の教授であった。1797年には音楽院でチェロの一等賞を獲得しており、サント・シャペルの所属であった。しかし、エルネストがまだ幼い子どもの頃に家族を残して出奔している[2]。母のマリー=ジュリー・アリニェはパリのオペラ=コミック座で歌うメゾソプラノだった[3]。エルネストはパリ音楽院時代にジャン=フランソワ・ル・スュールとジャック・アレヴィの薫陶を受けた。シャルル=ヴァランタン・アルカンにピアノを師事し、ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールとフェルディナン・エロルドにオペラ作曲の指導を仰いだ[4][5]。
ブーランジェは19歳であった1835年にカンタータ『アチーユ』でローマ賞を獲得した[6]。1842年にはコミック・オペラの作曲家、及び指揮者として名を馳せはじめる。1842年から1877年の間に、彼は計12作のコミック・オペラを生み出した。代表作である全3幕のオペラ『ドン・キホーテ』は1869年にリリック座で初演された。最も上演回数の多い作品であった1幕の『Les Sabots de la marquise』(侯爵の木靴)は1854年にオペラ・コミック座で初演された作品である[4]。彼は1870年にレジオンドヌール勲章のシェヴァリエに叙され、1871年にパリ音楽院の声楽科の教授に就任する。1881年には芸術アカデミー会員に任命される。パリの文化人の集まりの中で、ブーランジェはシャルル・グノー、ジュール・マスネ、カミーユ・サン=サーンス、William Bouwensと付き合った[7]。
ブーランジェはサンクトペテルブルクで、41歳年下の妻ライッサ・ミチェツキー(旧姓:ミチェツカヤ 1856年-1935年)と出会った。彼女はミハイル2世の子孫にあたるロシアの公女であり[8]、ブーランジェは彼女の歌唱の指導者であった[9]。2人は1877年に結婚してパリへ移住、2女を儲けた。教師、作曲家となったナディアと[10]、作曲家となったリリである[1]。父と同様に娘たちもローマ賞に応募し、ナディアは1908年に2等賞、リリは1913年に1等賞を獲得している[6]。