エルマー・トマス
アメリカの政治家 (1876-1965)
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ジョン・ウィリアム・エルマー・トマス(John William Elmer Thomas、1876年9月8日 - 1965年9月19日)は、オクラホマ州選出のアメリカ合衆国上院議員。
| エルマー・トマス | |
|---|---|
| アメリカ合衆国上院議員 オクラホマ州選出 | |
| 任期 1927年3月4日 - 1951年1月3日 | |
| 前任者 | ジョン・W・ハレルド |
| 後任者 | A・S・マイク・モンロニー |
| アメリカ合衆国下院議員 オクラホマ州第6選出 | |
| 任期 1923年3月4日 - 1927年3月3日 | |
| 前任者 | L・M・Gensman |
| 後任者 | ジェド・ジョンソン |
| 個人情報 | |
| 生誕 | ジョン・ウィリアム・エルマー・トマス 1876年9月8日 インディアナ州グリーンキャッスル |
| 死没 | 1965年9月19日(89歳没) オクラホマ州ロートン |
| 墓地 | ハイランド墓地 北緯34度37分56秒 西経98度24分1秒 |
| 政党 | 民主党 |
| 配偶者 | エディス・スミス |
| 専業 | 弁護士 |
生い立ち
政治家人生
オクラホマ州政
1907年に州議会議員に初当選し、1920年まで在職。上院仮議長(1910年 - 1913年)を務め、メディスン・パーク・リゾートを設立し、オクラホマ州のメディスン・パーク内に造られた同州初の魚卵孵化場を監督した。1920年、第67議会議員選挙で落選。1922年に再出馬して当選し、第68及び第69議会(1923年3月4日 - 1927年3月3日)に民主党員として当選。オクラホマ州選出の下院議員として、インディアン教育法、マクナリー=ハウゲン農場法、農民の信用を拡大する立法を支持。また、下院公有地・債権委員会委員を務めた[1]。

国政

トマスは1926年、再指名を受けずに連邦上院議員候補となり、前州知事ジャック・ウォルトンを破って、1926年に連邦上院に民主党員として当選した。農民に無関心であるとしてクーリッジ政権を批判し、フーヴァーの1929年農産物市場法 (Agricultural Marketing Act of 1929) を渋々支持し、退役軍人への補助金支給を支持した[1]。1932年に再選され、フランクリン・ローズヴェルトとニュー・ディールを積極支持した。具体的には農業調整法の修正案、いわゆる「トマス修正」を提案した。これは不況で現金が逼迫した際、ドルに対する金の裏付けを減らし、銀による裏付けのみで紙幣を発行する権限を大統領に与えることにより、農民を財政的に支援するというものである(ローズヴェルト政権時の予算局長ルイス・ダグラスは金本位制に対するこの脅威に激怒し、修正条項の最終形態は弱められた)。彼はインディアンに味方し、インディアン問題委員会の委員長(1935年 - 1944年)を務めた[1]。
ローズヴェルトは1938年にオクラホマ州を訪問し、トマスの再選のために動いた。トマスは、首尾良く勝利した。彼は国際情勢に強い関心を持っており、国際連盟やケロッグ=ブリアン平和協定、国際司法裁判所を支持した。1935年と1937年に中立支持票を投じたが、自身の主な関心は米国の軍備にあると語った。彼は陸軍中佐として軍事情報を担当したことがあり、予備役編入後もその地位を保持していた。1938年6月、軍事予算小委員会の委員長に就任し、「危機的状況にある」国防の基礎をなす多数の基地を調査した。第二次世界大戦中、彼の小委員会は、最高機密である原子爆弾計画への資金拠出を確保した[1]。
トマスは1944年に再選され、第3位の長老上院議員となった。1944年から1946年まで、また1949年から1950年まで、農林委員会の議長を務めた。1945年と1946年にケベックとコペンハーゲンで開催された食料会議に出席し、1949年にはマーシャル・プラン基金の監査の一環として欧州を視察した[1]。
政治経歴の終わり
栄誉
トマスは、1932年にオクラホマ殿堂入りした[3]。