大手酒類製造会社チンザノ社創業家の女子相続人パオラ・チンザノ(1873年 - 1949年[1])とその夫アルベルト・マローネ(1871年 - 1945年[2])の間の息子で、両親の姓をつなげた複合姓を名乗った。第一次世界大戦では志願兵としてイタリア陸軍に入隊、下級少尉(Sottotenente)の階級で退役した。その後は家族から引き継いだチンザノ社の経営に長く携わった。
1924年から1928年にかけ、サッカークラブFCトリノ会長を務めた。会長就任後、クラブにとって実質上初めてのホームスタジアムであり、敷地内にトレーニング施設をも備えたスタディオ・フィラデルフィア(英語版)を建設した。マローネ・チンザノはスタジアム建設資金を集めるために株式会社ソシエタ・チヴィーレ・カンポ・トリノ( Società Civile Campo Torino (SCCT))を設立した。1926-1927年シーズンのディヴィジオーネ・ナツィオナーレ(英語版)ではリーグ優勝の栄冠を手にするが、ライバルチームに賄賂を渡して八百長で優勝したことが明るみに出て、1927年優勝を取り消された。マローネ・チンザノは刑事告発され、1927年11月4日拘置所に収監されるが、1928年4月22日大赦により釈放された。続く1927-1928年シーズンのディヴィジオーネ・ナツィオナーレ(英語版)では、オーストリアから招聘した名監督トニー・カルニェッリ(英語版)の采配で、トリノのクラブ史上リーグ初優勝を成し遂げた。しかしこの優勝を見届けてすぐにFCトリノ会長の座を退いた[3]。
1928年4月25日パリで、アルゼンチン人のノエミ・ロサ・デ・アルコルタ・イ・ガルシア=マンシージャ(1907年 - 1937年)と結婚した[4]。彼女はアルゼンチンの外相・法相をつとめた政治家アマンシオ・アルコルタ(英語版)の孫にあたる女性で、彼女との間に1男2女をもうけたが、1937年に死別した。
- 長男:アルベルト・マローネ・チンザノ(1929年 - 1989年) - ジョヴァンニ・アニェッリの曾孫クリスタ・デイ・カメラーナ女伯爵と結婚し、3子を得る
1940年6月11日ローマで、同市に亡命していたスペイン王アルフォンソ13世の次女マリア・クリスティーナ王女と再婚した[5]。王は娘たちが同じヴィクトリア英国女王の血を享けた王族男性と結婚して血友病の子孫を生むことへの恐れから、そして王家の亡命生活を支える経済的支援者を得る必要から、王族の血筋でない資産家男性を娘たちの夫に選んだ。したがってマローネ・チンザノと王女の結婚は貴賤結婚であり、マリア・クリスティーナ王女は結婚に際して自身と子孫の王位継承権を放棄した。それでもスペイン国王の娘婿が平民というのは都合が悪かったため、結婚に先立つ1940年5月13日、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はマローネ・チンザノとその直系子孫に世襲伯爵位を与えた。夫妻は間に4人の娘をもうけた。
- ヴィットーリア・マローネ・チンザノ(1941年 - ) - 1961年第6代カーサ・ロリング侯爵ホセ・カルロス・アルバレス・デ・トレド・イ・グロスと結婚、4子を得る
- ジョヴァンナ・マローネ・チンザノ(1943年 - ) - 1967年ハイメ・ガロバルト・イ・サトゥルステキと結婚し1子を得る(1980年離婚)、1989年ルイス・アンヘル・サンチェス=メルロー・イ・ルイスと再婚
- マリーア・テレーザ・マローネ・チンザノ(1945年 - ) - 1967年第17代バエナ公爵ホセ・ルイス・デ・アラナ・イ・モンタルボと結婚、3子を得る(1989年離婚)
- アンナ・サンドラ・マローネ・チンザノ(1948年 - ) - 1968年ジャン・カルロ・スタヴロ・ディ・サンタローザと結婚し2子を得る(1975年離婚)、1986年フェルナンド・スワルツ・イ・ヒロンと再婚
マローネ・チンザノの遺骸は、1996年に亡くなった後妻とともにトリノ顕彰者墓地(イタリア語版)内のマローネ・チンザノ伯爵家霊廟に眠っている。