オットーネ3世 (モンフェッラート侯)
From Wikipedia, the free encyclopedia
| オットーネ3世 Ottone III | |
|---|---|
| モンフェッラート侯 | |
|
| |
| 在位 | 1372年 - 1378年 |
|
| |
| 出生 |
1358/61年 |
| 死去 |
1378年12月16日 ランギラーノ |
| 埋葬 | パルマ大聖堂 |
| 配偶者 | ヴィオランテ・ヴィスコンティ |
| 家名 | パレオロゴ=モンフェッラート家 |
| 父親 | モンフェッラート侯ジョヴァンニ2世 |
| 母親 | イサベル・デ・マヨルカ |
オットーネ3世・パレオロゴ(Ottone III Paleologo, 1358/61年 - 1378年12月16日)は、モンフェッラート侯(在位:1372年 - 1378年)。セコンドット(Secondotto)またはセコンド・オットーネ(Secondo Ottone)の呼び名は、オットーネがモンフェッラートを自らの権利で統治した2人目のオットーネであることに由来するといわれるが、実際には3人目である。より可能性が高いのは、オットーネの父が侯領の首都とみなしていたアスティの守護聖人である聖セクンドゥス(イタリア語ではサン・セコンド)に由来することである[注釈 1]。オットーネの名は、父ジョヴァンニ2世の親しい同盟者であったオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲンに敬意を表して付けられたとも考えられる[2]。
オットーネは1360年頃、モンフェッラート侯ジョヴァンニ2世とイサベル・デ・マヨルカの長男として生まれた[2]。1361年12月、ジョヴァンニ2世とミラノの共同領主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティとの間で結ばれた和平協定の一環として、オットーネはガレアッツォ2世の4歳の娘マリーアと婚約した。ガレアッツォ2世も領有を狙っていたアスティはマリーアの持参金の一部となり、モンフェッラート侯はアスティの支配権を保持することが認められた。しかし、この和平は長くは続かず、マリーアは翌年5月に亡くなった[2][3]。
オットーネは12歳頃に侯位を継承し、当初は親族のブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公オットー[注釈 2]とサヴォイア家のアメデーオ6世の共同統治下で統治した。父の遺言では、25歳になるまでオットー・フォン・ブラウンシュヴァイクの庇護下に置かれることになっていた。しかし、オットーは1376年にナポリへ旅立ち、女王ジョヴァンナ1世と結婚した[4]。
弱く無能であったオットーネは、オットー・フォン・ブラウンシュヴァイクの不在によって重責を担うことができなかった。そこでオットーネは、ガレアッツォ2世・ヴィスコンティの娘で、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの未亡人であるヴィオランテと結婚し(1377年8月2日)、サヴォイア家、サヴォイア=ピエモンテ家、サヴォイア=アカイア家に対抗するため、ヴィスコンティ家との同盟を結んだ[4]。
オットー・フォン・ブラウンシュヴァイクの弟がアスティを攻撃し占領した際、オットーネは義父ガレアッツォ2世に援軍を要請した。ガレアッツォ2世は大軍を率いてアスティを奪還し、ミラノの支配下に置いた。オットーネはこの時、ミラノとの同盟の危険性を悟ったが、時すでに遅しだった。オットーネは軍を集めてミラノ軍と戦ったが敗北した。おそらく恐怖心から、オットーネは撤退し行方不明となった。パルマ近郊のランギラーノにおいて、オットーネは不可解な状況で亡くなった。単に喧嘩に負けただけであったかもしれないし(オットーネは気性が荒く暴力的だったことで有名であった)、ヴィスコンティ家の工作員に暗殺された可能性もある。オットーネの遺体はパルマに運ばれ、大聖堂の主祭壇前に埋葬された[4][5]。
オットー・フォン・ブラウンシュヴァイクはオットーネの死の知らせを受けると、すぐに侯領に戻り、後継者問題に取り組んだ。オットーはオットーネの弟ジョヴァンニ3世をモンフェッラート侯位に就かせた。皇帝に選出されたヴェンツェルの関与にもかかわらず、オットーがジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティとアスティ奪還に関して始めた交渉は実を結ばなかった[4]。