オディロ (バイエルン公)
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生涯
オディロはアレマン貴族ゴットフリート(709年没)の息子であり、バイエルン公テオドの外孫としてアギロルフィング家の血を引いていた。トゥールガウにおいて父の跡を継いでいたが、737年に従兄弟にあたるバイエルン公フグベルトが死去し同家の嫡流が断絶すると、バイエルン公位を継承した。
オディロは739年、バイエルンにおける司教区の設置を主導した。この時、聖ボニファティウスによってレーゲンスブルク、フライジング、パッサウ、ザルツブルクの4つの司教区が設立された(ボニファティウスは741年、隣接するフランケン地方にもヴュルツブルク司教区を創設している)。オディロのこうした施策はバイエルン貴族の反乱を招き、オディロは一時、フランク王国の宮宰カール・マルテルの宮廷へ亡命せざるを得なくなった。741年、オディロはカール・マルテルの娘ヒルトルードと結婚したが[2]、義父の死後、妻の兄弟であるカールマンおよびピピン3世(小ピピン)と敵対し、戦争状態に陥ることとなった。
オディロはアキテーヌ公ウナール1世を説得してネウストリアを攻撃させ、シャルトルを焼き討ちさせた上で、その支援を受けてフランク王国の支配に反旗を翻し、アレマン人を支援した[3]。743年、レヒ川の戦いで敗北を喫し、バイエルンに対するフランク王国の宗主権を認めざるを得なくなったが、公爵の地位には留まることができた[3]。その後、カランタニア公ボルトがアヴァール人の度重なる侵攻に苦しむ中でこれを支援し、南東のスラヴ系公国を臣従させることに成功して、自身の支配をさらに強固なものとした。
748年にオディロが死去すると、カール・マルテルの息子で、オディロの未亡人ヒルトルードの異母弟にあたるグリフォが、バイエルンで自らの支配権を確立しようと画策し、オディロの息子タッシロ3世を拉致した。しかし翌年、グリフォはピピン3世に敗れ、ピピン3世は7歳のタッシロ3世をバイエルン公に据えた[4]。
オディロは、ベネディクトボイエルン修道院(739年)、ニーダーアルタイヒ修道院(741年)[5]、モントゼー修道院(748年)[6]をはじめとする数多くの修道院の創設者とされている。アレマニアのゲンゲンバッハ修道院に埋葬された。