オランダの治水
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治水は、オランダにとって重要な課題である。国土の標高が低く、その約3分の2が洪水の危険にさらされており、しかも人口密度が高いからである。そのため、自然の砂丘や、人工的に築かれた堤防やダム、水門が、海の高潮から防御する役割を果たしている。また、ライン川やマース川といった主要河川から国内へと流れ込む水による洪水は、河川堤防によって防がれている。さらに、排水用の溝や運河、ポンプ場(歴史的には風車)が複雑に組み合わさった水理システムにより、低地は居住や農業を可能とする乾いた土地に保たれている。こうしたシステムの維持管理は、水管理委員会と呼ばれる独立した地方自治組織が担っている。
近代以降は、洪水災害の経験と技術の進歩が相まって、海からの脅威を軽減し、将来的な洪水を防ぐための大規模な建設事業が行われてきた。これらの事業は、地理的にも軍事的にもオランダの歴史において不可欠なものであり、影響を受けた都市に住む多くの人々に大きな変化をもたらしてきた。また、継続的なインフラ整備を通じて、都市の経済発展にも寄与してきた。
歴史
古代ギリシャの地理学者、ピュテアスは、紀元前325年頃、ヘルゴラント島へ向かう途中で低地地方(現在のオランダ周辺)を通過した際、「人々は人との戦いよりも、水との戦いで多くの命を落としている」と記している。また、1世紀のローマの著述家、プリニウスも、『博物誌』のなかでこれに似たことを書いている[1]。
この地では、1日に2回、海の大きな潮が広い土地一帯に押し寄せ、そこが陸なのか海なのか分からなくなるほど、自然のせめぎ合いを一時的に覆い隠してしまう。そこに住む哀れな人々は、最高潮位よりも高い場所、あるいは人工的に築いた台地の上に住み、その場所に建てた小屋で生活している。周囲の土地が水に覆われているときは船に乗る船乗りのようであり、潮が引いた後には難破した人のような状態になる。彼らは小屋の周りで、引き潮とともに逃げようとする魚を捕らえて暮らしている。彼らは近隣の部族のように家畜を飼って乳を得ることもできず、また、野生動物と戦うことさえない。なぜなら、すべての草木ははるか遠くへ押しやられてしまっているからである。
洪水の危険にさらされているオランダの地域は、本質的には沖積平野であり、何千年にもわたる河川や海の氾濫によって運ばれた堆積物によって形成されたものである[2]。約2000年前、現在のオランダの大部分は泥炭湿地に覆われていた。海岸線は、沿岸砂丘や自然の堤防が連なっており、それらは湿地が排水されるのを妨げると同時に、海に浸食されるのも防いでいた。人々が居住できる場所は、東部や南部の高地、そして海岸や河川沿いの砂丘や自然堤防に限られていた。しかし、海がこうした自然の堤防を突破している場所もあり、北部には広大な氾濫原が形成された。
この地域に最初に定住した人々は、おそらく海によって運ばれた粘土質の土壌に引き寄せられたと考えられている。この土壌は、内陸部の泥炭や砂質の土壌よりもはるかに肥沃であった。彼らは洪水から身を守るため、「テルペン (terpen)」や「ヴィールデン (wierden)」と呼ばれる人口の居住用の盛土(ドイツでは「ヴァルフテン (Warften)」や「ハリゲン (Halligen)」と呼ばれる)の上に家を建てた。紀元前500年から紀元後700年にかけては、海面の上昇と下降が何度も起こったため、居住と放棄が繰り返された。最初の堤防は、高さ1メートルほどの低い土手に過ぎず、畑を取り囲むように築かれ、時折発生する洪水から作物を守るためのものであった。9世紀頃になると、再び海面が上昇し、多くのテルペンは安全を確保するため、さらにかさ上げする必要が出てきた。この頃になると、個々に存在していたテルペンが次第にまとまり、村を形成するようになっていた。そして、これらの村は初期の堤防により、互いに結ばれるようになった。
1000年頃以降、人口が増加すると、耕作可能な土地の需要が高まる一方で、労働力も増えたため、堤防建設はより本格的に進められるようになった。後の堤防建設において大きな役割を破綻したのが、修道院である。彼らは最大の土地所有者であり、大規模な工事を実施するための組織力・資源・労働力を備えていた。1250年までには、ほとんどの堤防がつながり、一続きの海防線を形成するに至った。
次の段階として、堤防はさらに海側へと押し出されていった。満潮と干潮の繰り返しにより、わずかな堆積物が積み重なり、長い年月とともに高くなって、めったに水に浸からない土地となった。このようになると、その地域の周囲に新たな堤防を築いても安全だと考えられた。古い堤防の一部はそのまま残された箇所もあり、「休眠堤防」と呼ばれる二次的な防御線として利用された。

しかし、堤防は必ずしも常に海側へ拡張したわけではなかった。特に南西部の河川デルタ地帯では、主要な海岸堤防が潮流によって浸食され、基礎が崩されてしまうことがたびたびあった。そのため、「インラーフダイク(内陸堤防、inlaagdijk)」と呼ばれる二次的な堤防が築かれた[3]。海側の堤防が決壊した場合には、この内陸側の堤防が新たな第一線の防御となる。このように冗長性を持たせることで安全性は高まるが、最初の堤防と二番目の堤防の間の土地は失われることになり、その損失は年を追うごとに拡大し得る。
また、堤防で囲うことによって洪水の繰り返しから土地を切り離すと、氾濫の際に残されるシルトによって地盤がかさ上げされることがなくなる。一方で、排水された土地は締め固まり、泥炭が分解することで地盤沈下が進む。その結果、堤防の片側にある水位と、もう一方の陸地の高さとの差は次第に大きくなっていった。このため、洪水の発生頻度自体は減少したものの、ひとたび堤防を越えて水があふれたり決壊したりすると、その被害ははるかに甚大なものとなった。
堤防構造の変遷
堤防の建設方法は、時代とともに変化してきた。中世において一般的だったのは「ウィールダイク (wierdijken)」と呼ばれるもので、海藻の保護層を備えた土の堤防である。まず、海に面した側の土の斜面を垂直に切り立て、その縁に海藻を積み重ねていく。そして、それを杭で固定する。海藻は圧縮や腐敗の過程を経て固い層となり、波の力に対して非常に効果的に働いたうえ、ほとんど手入れを必要としなかった。海藻が手に入らない地域では、代わりに葦や編み枝などが用いられた。

もう一つ、長い間広く用いられていた方法として、木材を垂直に並べた壁状の構造の背後に土の堤防を築く方式がある。しかし、このような垂直構造は技術的にはあまり優れておらず、打ち寄せる波による振動や、基礎部分が洗い流されることによって、堤防が弱体化してしまうという問題があった。
さらに、1730年ごろになると「フナクイムシ (Teredo navalis)」と呼ばれる二枚貝の一種が出現し、木造構造に大きな被害を与えた。これはオランダ東インド会社の貿易船によってオランダにもたらされたと考えられており、木材を食い進むことで海の防御施設を次々と破壊した。そのため、補強材は木材から石へと変更されることになった。しかし、オランダには天然の岩石がほとんど存在しないため、石材はすべて国外からの輸入に頼らざるを得ず、これが大きな経済的負担となった。
現在の堤防は、中心部に砂を用い、その上を厚い粘土層で覆う構造になっており、防水性と侵食に対する耐性を確保している。前面に干潟などの緩衝地帯がない堤防では、水中部分に砕石の層を設けて波の勢いを弱めている。さらに、高潮位付近までは丁寧に敷き詰められた玄武岩やアスファルト層で覆われることが多い。残りの部分は草で覆われており、羊を放牧することで維持管理されている。羊は草を密に保つと同時に土壌を踏み固める役割も果たし、牛とは異なる効果をもたらしている。
泥炭湿地の開発
堤防の建設が進められていたのとほぼ同時期に、湿地帯が入植者たちによって初めて、農業に適した土地へと改良された。並列の排水用の溝を掘ることで、土地の水を抜き、穀物の栽培を可能にした。しかし、泥炭はほかの土壌に比べて排水すると大きく沈下する性質があり、その結果、地盤沈下をもたらし、開発された土地は再び湿った状態になってしまった。もともと穀物栽培に用いられていた耕地は、次第に水分過多の状態となり、やがて酪農用地へと転換されていった。そこで人々は、既存の耕地のさらに奥にある未開発の湿地へと進出し、新たな土地を開墾した。このような開発のサイクルは何度も繰り返され、やがてそれぞれの開発地が互いに接するようになり、もはや新たに開発できる未利用の土地はなくなった。結果として、最終的にはすべての土地が牛の放牧地として利用されるようになった。

地盤沈下が進むにつれ、余分な水を排出することはますます困難になっていった。そこで、河川や小川の河口はせき止められ、常流へ高水位の水が逆流して耕地にあふれ出るのを防いだ。これらのダムには、弁付きの木製の水路が設けられており、水は排出できる一方で逆流は防ぐ仕組みになっていた。こうしたダムは船の航行を妨げるため、荷物の積み替えが必要となり、その経済活動によってダム付近には村が発展していった。有名な例としては、アムステル川に築かれたダムに由来するアムステルダムや、ロッテ川のダムに由来するロッテルダムがある。船舶の通航を可能にする閘門が整備されるようになったのは、さらに後の時代になってからである。
さらなる排水が可能になったのは、15世紀に干拓地用風車が開発されて以降であった。この風力による排水装置は、現在ではオランダを象徴する観光名所の一つとなっている。初期の排水風車は水かき車を用いており、最大でも約1.5メートルしか水をくみ上げることができなかった。しかし、複数の風車を組み合わせることで、より高い揚水が可能になった。その後の風車にはアルキメディアン・スクリューが取り付けられ、さらに高い位置まで水をくみ上げられるようになった。こうして、現在では多くが海面より低い位置にある干拓地は、排水溝や運河から水をくみ上げ、それを「ボーゼム (boezem)」と呼ばれる運河や湖のネットワークへと送り込むことで乾燥状態が保たれている。ボーゼムは複数の干拓地をつなぎ、水を一時的に貯める調整池として機能し、その後、干潮時に水門から排出するか、さらにポンプを使って河川や海へと排水される。排水風車は現在でも基本的な仕組みは変わっていないが、風力ではなく蒸気機関、さらにはディーゼルや電動のポンプ場へと置き換えられている。
中世における都市や産業の発展により、燃料としての乾燥泥炭の需要が増大した。最初は地下水面までの泥炭がすべて掘り尽くされたが、16世紀になると、水面下の泥炭を採掘する方法が開発された。これは長い棒の先に浚渫用の網を取り付けて掘り出す方法である。こうした大規模な泥炭採掘は、都市の投資家に支えられた企業によって行われるようになった。
しかし、このような開発はときに景観を大きく破壊した。農地は掘り崩され、泥炭を乾燥させるために残された細長い土地も、波の作用によって崩壊していった。その結果、小さな湖が形成され、それが急速に拡大していった。水面が広がるほど風の影響を強く受けるようになり、さらに周囲の土地が侵食されるという悪循環が生じた。人為的に作られた湖の波によって、村が消滅してしまうことさえあった。
干拓地用風車の発達により、これらの湖を排水することが可能になった。16世紀には小さく浅い湖から干拓が始まり、その後、より大きく深い湖へと対象が広がっていった。しかし、最も危険とされた湖であるアムステルダム近郊のハーレマーメールが蒸気機関によって排水されたのは、19世紀になってからである。干拓された湖や新しく造成された干拓地は、地形図上でも比較的容易に識別することができる。これらは、周囲の古い土地と比べて、規則的に区画された特徴的なパターンを持っているためである。事業に携わった風車建築技師、水利技術者のヤン・レーグワーテルは、その功績によって広く知られるようになった。
洪水の制御
ヨーロッパの主要河川であるライン川、マース川、スヘルデ川はオランダを流れており、このうち前者2つは国土を東から西へと横断している。
河川に対する最初の大規模な土木工事は、ローマ人によって行われた。ネロ・クラウディウス・ドルススは、ライン川にダムを築き、ワール川へ流れる水をネーデルライン川へと分流させたほか、それまで小さな流れにすぎなかったアイセル川をライン川に接続したともいわれる。これらの工事が洪水対策として行われたのか、それとも軍事的防衛や輸送の目的であったのかは定かではない。
最初の河川堤防は11世紀ごろ、河口付近に築かれた。河口付近では、海からの逆流により、河川が増水する危険性が高かった。地方の支配者たちは、自分の領地を洪水から守るために河川の分流をせき止めた。たとえば、1160年頃のホラント伯によるクロム・ライン川、1285年のフロリス5世によるホランセ・アイセル川である。しかし、このように下流側で水の流れを制限すると、上流側ではかえって洪水の危険が高まることになった。また、上流域では大規模な森林伐採が進んだことにより、河川の水位変動がより激しくなり、加えて耕作地の需要増加によって堤防で囲われる土地が増えた結果、河道が狭められ、水位はさらに上昇した。村ごとにつくられていた堤防はやがて連結され、「バン堤防」と呼ばれる連続した堤防となり、流路はそのなかに閉じ込められるようになった。こうした変化により、初期の川沿いの住民にとって、日常的な洪水は単なる不便にすぎなかったのに対し、後の時代には、堤防が決壊した際に発生する洪水が、はるかに大きな被害をもたらすようになった。

17世紀から18世紀にかけては、大規模で悪名高い河川洪水がたびたび発生し、多くの人命が失われた。洪水は、氷の塊が川をせき止める「アイスダム」によって引き起こされることもあった。また、干拓事業や大規模なヤナギの植林、さらには冬季に水が流れ込む氾濫原にも建設が進んだことなどが、問題をさらに悪化させた。こうした状況に対して、冬水路の整備に加え、「越流堤 (overlaten)」と呼ばれる仕組みが導入された。これは意図的に低く造られた堤防で、水位が上昇した際に余分な水を下流へ逃がすためのものである。この越流路にあたる土地には建物や障害物を設けず、常に開けた状態に保たれていた。このような「緑の河川」と呼ばれる区域は、実質的には放牧以外に利用できなかったため、後の時代には土地の無駄遣いと見なされるようになった。その結果、現在では多くの越流堤が撤去され、より強固な堤防の整備や、河川の分流間での水の分配を制御する方法へと重点が移されている。この改良を行うため、パネルデン運河やニューウェ・メルウェデ川といった人工水路が掘削された。
1977年には、河川堤防の脆弱性について委員会が報告を行ったが、住宅の撤去や蛇行した古い堤防の直線化・強化に対して地域住民の強い反対があり、対策はなかなか進まなかった。しかし、1993年、1995年に、20万人以上が避難を余儀なくされ、堤防もかろうじて持ちこたえるという事態が繰り返し発生し、洪水の危険が現実のものとなったことで、ようやく具体的な対策が実行に移されることになった。現在では、河川の氾濫リスクは「100年に1度」から「1250年に1度」へと大幅に低減されている。さらに、「ルーム・フォー・ザ・リバー(河川のための空間)」計画のもと、河川により広い氾濫空間を確保する取り組みが進められており、その結果として洪水時の水位上昇を抑えることが可能になっている。
水管理委員会
初期の堤防や水管理施設は、それによって直接利益を受ける人々、主に農民によって建設・維持されていた。やがて構造物が大規模かつ複雑になるにつれて、自分たちの土地の水位管理に共通の利害を持つ人々による評議会が組織されるようになり、こうして最初の水管理委員会が誕生した。これらは当初、単一の干拓地や堤防といった小さな範囲のみを管理していたが、やがて異なる水管理委員会同士の利害が対立するようになると、統合されたり、全体を調整する組織が設けられたりした[4]。初期の水管理委員会は、組織形態や権限、管理区域などが大きく異なっており、その違いは、高潮から海岸堤防を守る必要があるのか、あるいは干拓地内の水位を調整する必要があるのかなどといった地域ごとの事情によって決まっていた[5]。20世紀半ばには約2,700の水管理委員会が存在していたが、その後の統合を経て、現在では21にまで減少している。これらの委員会は独自に選挙を行い、課税権を持ち、他の行政機関から独立して機能している[6]。
堤防の維持管理は、その恩恵を受ける個々人に任されており、各農民には担当する堤防区間が割り当てられ、3年ごとに水管理委員会の役員による検査が行われていた。「水によって被害を受ける者が、水を防ぐ (Wie het water deert, die het water keert)」という古い原則のもと、堤防の近くに住む人々が費用と管理の責任を負っていた。しかしこの仕組みは場当たり的な維持管理を招き、堤防がより良い状態であれば防げた、あるいは被害を軽減できたはずの洪水も多かったと考えられている[7]。内陸に住む人々は、自分たちも洪水の影響を受けるにもかかわらず、堤防の維持に対する負担や協力を拒むことが多く、一方で堤防沿いの住民は決壊時の修復費用の負担によって破産してしまうことさえあった[8]。
1798年、フランス統治下において、水管理を中央政府のもとに統一するためにライクスワーテルスタート(Rijkswaterstaat、公共事業・水管理局)が設立された。しかし、地方の水管理委員会はその自治権へのこだわりが強く、ライクスワーテルスタートはそれらと並行して活動する形をとった。ライクスワーテルスタートは多くの大規模水管理施設の建設を担ってきたほか、後には鉄道や高速道路の建設にも関与し、現在もその役割を果たしている。
また、水管理委員会は新たな試みにも取り組んでおり、例えば南ホラント州沖で行われている「サンドエンジン」のような実験的プロジェクトも実施されている。
洪水史

長年にわたり、オランダでは多くの高潮や洪水が発生してきた。その中でも、特に国土の形を大きく変えるほど影響を与えたものをいくつか特筆する。
まず、1170年の「万聖節の洪水」をはじめとする一連の壊滅的な高潮によって、広大な泥炭湿地が流失した。その結果、ワッデン海が拡大し、国内中央部にあったアルメレ湖は北海とつながり、ゾイデル海が形成された。この内海は、1933年に締め切り大堤防(アフスライトダイク)が建設されるまで、長い間多くの問題を引き起こすこととなった。
また、1219年に始まる一連の嵐によって、エムス川河口付近にドラルト湾が形成された。ドラルト湾は1520年ごろに最大の広さに達し、ライデルラント地方の数多くの町や村が失われた。その後、これらの土地の多くは干拓によって取り戻されている。
1421年の「聖エリーザベト洪水」によって、国の南西部にあったデ・フローテ・ワールトが消滅した。この災害の背景には、塩の生産のために堤防付近で泥炭が掘削されていたことや、内戦による管理の不備があり、これらが堤防決壊の原因となった。その結果生まれたビースボスは、現在では貴重な自然保護区となっている。
さらに近年では、1916年と1953年の洪水がそれぞれ大規模な治水事業の契機となり、前者はアフスライトダイクの建設、後者はデルタ計画の実施へとつながった。
防衛としての洪水利用

特定の地域を意図的に水没させることで、防衛線を構築することもできる。敵軍が進攻してきた際に、その地域に深さ30cmほどの水を張るという手法が用いられた。これは船が航行するには浅すぎる一方で、水中に隠された運河や溝、さらには人工的に設けられた障害物が見えなくなるため、徒歩での前進を困難にするのに十分な深さであった。浸水区域を横切る堤防をはじめとする重要地点には、防御施設が設けられていた。この仕組みは、「災厄の年」ともいわれる1672年、第三次英蘭戦争が勃発した際に、オランダ水防線として効果を発揮した。しかし、1795年には厳しい寒波によって水が凍結し、この防衛線は突破されてしまった。同様の戦略は、アムステルダム防塞線、グレッベ線、アイセル線などでも用いられた。しかし、重火器の発達や、とりわけ航空機の登場により、このような戦術は次第に時代遅れのものとなっていった。
近年の開発
20世紀における技術の進歩により、洪水に対する安全性をさらに高めるため、また広大な土地を干拓するための、大規模な事業が可能となった。なかでも最も規模が大きいものが、ゾイデル海開発とデルタ計画である。20世紀末までに、海へとつながる入り江はすべて、ダムや防潮施設によって遮断された。ただし、アントワープ港への航路を確保するため、ウェステルスヘルデ川河口だけは開放されたままとなっている。また、ワッデン海やマルケル湖の一部を干拓する計画もあったが、これらの水域が持つ生態系やレクリエーションとしての価値が重視され、最終的に中止された。
ゾイデル海開発

ゾイデル海開発 (Zuiderzeewerken) は、ダム建設、干拓、排水からなる土木事業全般を指す。この計画の中心となったのは、北海につながる大きく浅い入り江であったゾイデル海を締め切ることであった。このダムはアフスライトダイク (Afsluitdijk) と呼ばれ、1932年から1933年にかけて建設され、ゾイデル海を北海から切り離した。その結果、ゾイデル海は淡水湖であるアイセル湖へと変わった。
ダム完成後、新たにできた淡水湖の一部を干拓地とし、広大な土地が造成された。これらの工事は1920年から1975年にかけて段階的に実施された。この計画の設計および実現に大きく貢献したのが、技術者であり政治家でもあったコルネリス・レリーである。
デルタ計画

南西部の河川デルタ地帯の海岸防御は、1937年にライクスワーテルスタートが調査を行った結果、大規模な高潮に耐えられないことが明らかとなった。当初の計画では、河口や海の入り江をすべてダムで閉じ、海岸線を短縮することが提案された。しかし、この計画は非常に大規模であったうえ、第二次世界大戦の影響もあり、建設は遅れ、最初の工事が完了したのは1950年になってからであった。1953年の北海大洪水は、この計画を加速させる大きな契機となった。その後、複数のダムが建設され、河口部が次々と閉鎖された。しかし1976年には、環境保護団体や漁業関係者の圧力を受け、オーステルスヘルデ河口においては完全に閉じるのではなく、高潮時のみ閉じる可動式の防潮堤「オーステルスヘルデケーリング (Oosterscheldekering)」が建設されることとなった。この堤防は、計画のなかでも最も有名かつ費用を要した施設である。
さらに大きな課題となったのが、ロッテルダム周辺のライン川河口地域(ラインモント地区)であった。ニューウェ・ワーテルウェフを介して流入してくる高潮は、約150万人に被害を及ぼす可能性があった。しかし、この河口を完全に閉鎖すると、世界有数の港であるロッテルダム港の機能に深刻な影響を与えてしまう。そこで1997年に建設されたのが「マースラントケーリング (Maeslantkering)」である。これは2つの巨大な回転式ゲートから成り、通常は開放されているが、必要に応じて閉鎖され、河口を塞ぐ仕組みとなっている。このゲートは、およそ10年に1度の頻度で閉鎖される想定となっており、2025年9月までの時点で、実際に閉じられたのは2007年と2023年のわずか2回だけであった[9]。

