7月6日に開かれたウィンストン・チャーチル内閣の閣議ではこの暴動について議論が交わされた。チャーチルは「我々は何故秩序を保てなかった?治安回復のためにイギリス兵を派遣することはできなかったか?我が軍の憲兵隊はどこにいた?あの野蛮なカナダ兵たちが哀れで善良な商店主たちの家を破壊していた時、我々は何をするべきであったか?」と訪ねた。チャーチルの軍事顧問でもあるアラン・ブルック元帥は、「最後の最後には、私自身がイギリス兵に対し『問題を起こしたカナダ兵を手荒に扱え』と命じなければならないでしょう。こうした事件では、カナダ兵は彼らの同胞によって対処されるべきだ。イギリス人の赤帽警官(Red Cap police, 英憲兵(英語版)の俗称)さえも決して関わらせてはならないということです」と答えた[3]。
暴動に関連し、100人ほどのカナダ軍人が軍法会議で裁かれ、この内5人が有罪判決を受け、2年間の労役から7年間の懲役までの範囲で刑を宣告された[1][4]。多くのカナダ軍人がこの暴動にショックを受けていた。
1946年3月31日までに、カナダ政府はオールダーショットにおける破壊行為の修復費として41,541ドルを支払った。カナダ遠征陸軍のジョン・パーシヴァル・"プライス"・モンタギュー中将(John Percival "Price" Montague, 1882年 - 1966年)は、早期帰国を期待して太平洋派遣軍に志願した者が首謀者であったと考えており、「彼らはやくざ(racketeers)としか呼べまい」と語った。有罪判決を受けた兵士のうち、3人は太平洋派遣軍志願者だった。また、彼らのほとんどは軍規違反の前科があった[5]。
1945年9月26日、オールダーショットの市民はカナダ遠征陸軍に対し、「寛容と好意の証」として「オールダーショットにおける自由」(the Freedom of the Borough of Aldershot)を認めた[6][7]。