カトナ
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カトナの街を囲む城壁の遺構は現在でも残り、その高さは一部では20mになる。城壁の遺構は泥で作った日干しレンガと石灰岩の破片からなり、もとは石灰岩が壁面を覆っていたと推測される。城壁の前には濠が掘られている。青銅器時代の都市としては珍しいことに、城壁が囲む都市の形は四角形であり、各辺の真ん中あたりには門が設けられている。4つの城門は、白い石灰岩と黒い玄武岩を使ったオーソスタット(orthostats、壁の下部を覆う石の板)で覆われ、基礎は岩盤に達している。門の入り口の幅は4mである。
街の中心付近にある丘('colline centrale')はアクロポリスであったと推測される。宮殿は、アクロポリスの北にある「教会の小山」('Butte de l'eglise')と呼ばれる付近にあり、青銅器時代のシリアでも現在知られる中では最大級の建物であった。しかし宮殿の日干しレンガの壁の多くが1920年代の発掘の際に見逃されて掘り返されてしまい、石板で覆った壁や、硬い床面が境目を作る部分の壁だけが残っている。カトナの宮殿の間取りはマリの宮殿と非常に似ている。玄武岩でできた柱の基礎が多数見つかっており、この柱の使い方はアララハ遺跡第7層のヤリム・リム王(Yarim-Lim)の宮殿と比較できる。長さ20mはある玉座の間など、いくつかの部屋は寸法が非常に大きく、杉材でできた梁が屋根に使われていたとみられる。この宮殿は紀元前2千年紀前半に遡るとみられ、カトナの名前の分かっている最初の王イシ・アッドゥ王(後述)の住まいとも考えられている。中心の丘の北にある「小アクロポリス」には、2002年に二つ目の宮殿が見つかり、王族の住居と考えられている。
遺丘(テル)の上には1980年代からキリスト教徒の町が新しくでき始めている。このミスリフェ(Misrife)の町には、2000年現在で2,500人の住民がいる。
発掘調査
テル=エル=ミシュリフェでは、フランス委任統治領時代の1924年、および1927年から1929年の間に、Robert du Mesnil du Boisson の指揮の下で発掘調査が行われた。彼は青銅器時代の宮殿の一部、三つの門、墳墓などを発見しており、その成果は今日の調査の基礎になっている。1994年にはシリア文化省考古総局(Syrian General Directorate of Antiquities and Museums)により、中央部の丘と門が発掘された。1999年には考古総局、イタリアのウーディネ大学、ドイツのテュービンゲン大学により発掘が再開されたが、2002年の王墓および楔形文字の粘土板の発見を契機にドイツとイタリアの調査チームの間で対立が起こっている。