カルル・ハインリッヒ・シュトラッツ
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1858年6月14日、オデーサの裕福な商人 Heinrich Stratz の子として生まれる。一家はもともとバーデン=ヴュルテンベルク州エメンディンゲン郡Simonswald の出身で、エカチェリーナ2世の時代(在位:1762年 - 1796年)にロシアに移った。弟の Rudolph Heinrich Stratz は作家である[1][2]。
ロシア国籍で生まれた一家であるが、1874年1月13日にロシアで市民徴集兵(英: Narodnoe Opolcheniye)の召集が始まった後の1876年、ルイーゼ・フォン・プロイセンの尽力によりバーデン大公国(英: Grand Duchy of Baden)に受け入れられた[3]。
1877年、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクで医学を学び始める。1877/78年と1878/79年の冬学期(独: Wintersemester)、および1879年の夏学期(独: Sommersemester)をそこで過ごした。1879/80年の冬学期はフライブルク・イム・ブライスガウで、1881年から1882年まではライプツィヒで勉強を続けた。1883年8月2日、ハイデルベルクで医学博士の学位をクム・ラウデ(羅: cum laude)で取得。1883年から1886年まで、シャリテー産科学臨床研究所(独: Klinischen Institut für Geburtshilfe)で Karl Schroeder の助手を務める。
1887年、弟の Rudolf とともに赤道アフリカへ渡り、同年、王立オランダ領東インド陸軍(蘭: Koninklijk Nederlandsch-Indisch Leger)の軍医(蘭: Officier van gezondheid)となり、婦人科医としてジャワ島に派遣される。バタビアの病理解剖学の研究所で働く。1890年には島の奥地へ調査旅行に赴く。1892年、軍医としての仕事を終え、ジャワ島での研究成果を発表した。
- C. H. Stratz (1892). Gynäcologische Anatomie Bd.1 Circulationsstörungen und Entzündungen der Ovarien und Tuben. Fischer's Medizinische Buchhandlung
- C. H. Stratz (1894). Gynäcologische Anatomie Bd.2 Die Geschwülste der Eierstöcke. Fischer's Medizinische Buchhandlung. NCID BA17485633
1898年までにアメリカ、中国、日本への調査旅行を終える。1902年、ベルリン人類学・民族学・先史学会(独: Berliner Gesellschaft für Anthropologie, Ethnologie und Urgeschichte)の会員となる。1904年の『Mitteilungen zur Geschichte der Medizin und der Naturwissenschaften』には、シュトラッツが「南米、南アフリカ、オーストラリアを除く全世界を注意深く旅した」と記されている。1908年にヨーロッパに戻り、ハーグに定住。産婦人科医として開業。10年以上国外に滞在したためドイツ国籍を喪失したが、後に再取得している[4]。
1914年に皇帝勅令(独: kaiserlichen Erlass)によってプロイセン教授(独: preußischer Professorentitel)の称号を授与されるが、この件に関して詳細は不明である。第一次世界大戦中のシュトラッツの医療活動については正確には分かっていない。負傷したロシア人が治療を求めて彼のもとを訪れたと本人は述べている。また、職業柄ヨーロッパ各地に行くこともあり、弟のルドルフの自伝によるとシュトラッツはフランス、クールラント、マケドニア、そして再びフランスで長年にわたり陸軍病院長を務めた[4]。
1918年、ドイツ軍の軍医として1918年春季攻勢に参戦。イギリス軍の使用したダムダム弾の殺傷力の大きさについて報告した[5] (おそらく)初めての人物である。1919年には再びハーグに住んでいた。1923年、骨盤内膿瘍(独: Beckenabszeß)を患い、この年の秋以降は寝たきりとなる。1924年4月21日死去。