カントン制度は1733年に法が発布されて正式に成立したが、実際にはそれまでにすでに複数の試みが先行して行われており、法制化はそのまとめ、統一化である。以下にその内容を記す。
各連隊ごとに一定の地域を割り当て、そのなかで徴兵を行うようにしたものである。カントン制度の中核をなす。区割りそれ自体は、王の即位に前後してスペイン継承戦争が、またしばらくして大北方戦争が終結したことにより、それまでの戦争続きの数十年間、長く1か所にとどまることがなかった部隊に定まった駐屯地と言える場所ができたことから自然発生的に生じたものを追認した場合が多い。
区割りの中ではさらに中隊ごとに地域が小さく分けられ、可能な限り割り振られた地域の内で必要な人員を徴募することが求められた。連隊長や中隊長はその部隊の人員充足率について責任を負わせられていたために、しばしば同じ軍隊の中で兵士の取り合いが起こった。これを抑止するのが区割りの目的のひとつである。
徴兵された兵士をカントニスト (Kantonist) と呼ぶ。徴兵対象者は農村および都市の若い男子で、とくに貧しい農村出身者が実際に徴兵されるうちの多数を占めた。貴族はもちろんであるが、一定以上の資産保持者 (高額納税者) 、土地を所有する農民の長男 (後継ぎ) 、牧師、教師、医者とその学生、国が重要とみなしている分野で活動する職人、商人、などは除外された。また、ベルリンなどの大都市は都市がまるごと徴兵を免れる特権を有していた。これはその税収と産業による物品供給に優先が置かれていたからであるが、このために王はベルリンを内心嫌っていたという。
逃亡兵の処罰の様子。手前は服を脱がされた逃亡兵が槍を持った兵士のあいだを歩かされる「Spiessrutenlauf」、奥はさらし台に吊るされ鞭打たれる逃亡兵。
徴兵者が連隊から逃亡して村に逃げ帰った場合、その村が彼を匿えば見せしめのために村全体が罰を受けた。また逃亡兵の穴埋めは、必ずその出身の村から代わりの者を徴兵することによって行われた。このように、逃亡兵は故郷へ逃れてもすぐに当局に突き出されるように仕向けられていた。
連隊に地域性が生まれ、そこへ同じ土地の出身者がたくさん集まって所属したことは連隊の士気と団結に優れた効果をもたらした。また、連隊と地域住民との関係が向上した。また、実際に徴兵された者はずっと拘束されていたのではなくて、次の帰休兵制度によって、毎年農村の畑と都市の駐屯地を往復していた。
有事における戦力を確保しつつ、地域経済と国民の負担、および税収への影響を最小限に抑えるために設けられた。平時において、徴兵された兵士は最初の2年間の兵役を終えると、そのあとは1年のうち2か月だけ連隊に戻っていればよく、それ以外の10か月は村や都市に戻って働くことを許された。これを帰休兵制度と呼ぶ。この制度が導入された初めのころは1年のうち3か月は連隊にいることを求め、かつ、帰休する期間はあえて複数回に分けて1年のうち何度も連隊に復帰させた。逃亡を恐れたためであるが、制度が定着することによって兵士への信用が増し、そのようなことはなくなった。
帰休兵は、自身が兵士であることを示すために、公共の場 (教会の礼拝など) では制服の着用が義務づけられていた。きちんと義務を果たしているかどうかを一目でわかるようにするためである。また帰休兵についての裁判権は、基本的に、その兵が農民として所属する土地の領主ではなく、兵士として所属する連隊にあった。結婚、移住の許可についても同様である。これはプロイセンにおける伝統的な貴族-農民関係に重要な変化をもたらしたと考えられているが、これについては後述する。
帰休兵制度は、徴兵された者だけではなく、一部の、外国出身の傭兵に対しても適用された。彼らは部隊の駐屯する都市の労働力に加わり、向上心のある者は職人としての技量を身につけて除隊後もプロイセンの発展に貢献した。
毎年の世代交代、そして連隊に欠員が生じたとき迅速に補充を行えるように、あらかじめ連隊が徴兵義務者を把握しておく制度が設けられた。これが登録制度である。10代以上の徴兵対象身分の男子について、連隊はその名簿を作り、それは毎年更新された。登録されたものは赤いネクタイであるとか、赤い房飾りとかを身につけて一目でそれとわかるようにすることを求められた。これによって連隊は安定した定員の充足を保ち、戦争によって多くの損害を被った場合でも比較的短期間で戦力を回復することを可能にした。
連隊の士官や下士官はときどき村々を巡っては登録者を集めて、兵士の心得や、準備しておくべき事柄を教え、また時には実際の部隊の様子、訓練している光景を見学させた。徴兵されたときの慣熟までの時間の短縮を図るとともに、あらかじめ情報を与えることで徴兵への心理的抵抗を薄める目的があった。
登録された者は、やはり結婚や移動について連隊の承認が必要であった。連隊は必要以上に登録者の数を増やし、本来徴兵を免除されているはずの階層の人間でもかまわず名簿に入れてしまうことがあった。しかも、連隊は兵士ではない登録者についても、その土地の貴族の支配権を否定することがしばしばであったため、帰休兵の扱いについてと同様、領主貴族層と係争になった。これについても後述する。