カール・モーリッツ・ツー・プファルツ

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ハノーファー聖ヨハン宮廷・市街教会英語版にある、カール・モーリッツの墓石板(Grabplatte)、現在は墓碑となっているもの。ラテン語の銘には「カール・モーリッツ、ライン宮中伯家の荒地伯(„Carolus Mauritius Raugravius Palatinus Rheni“)」とある

カール・モーリッツ・ラウグラーフ・ツー・プファルツKarl Moritz Raugraf zu Pfalz[1]1670年12月3日 マンハイムフリードリヒスブルクドイツ語版 - 1702年1月13日 ヘレンハウゼンドイツ語版)は、ドイツの諸侯プファルツ=ジンメルン家の成員、称号はプファルツ荒地伯[2]ブランデンブルク=プロイセンの陸軍中佐[1]

プファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒとその2番目の妻で貴賤婚配偶者だったマリー・ルイーゼ・フォン・デーゲンフェルト英語版女男爵の間の第11子・六男。13人きょうだい(うち7人が成育)の11番目であり、弟妹たちとともに1667年父選帝侯が母に授与したプファルツ荒地伯(ラウグラーフドイツ語版)の称号を名乗った[2]。ただし同時に、彼らきょうだいのプファルツ選帝侯位継承権は否認された。

6歳の時に母を、9歳の時に父を亡くし、孤児となった彼は他の兄弟たちと一緒に、叔母(父の末妹)のカレンベルク侯夫人ゾフィーの住むハノーファーの宮廷に引き取られた[3]。叔母の夫であるカレンベルク侯エルンスト・アウグストは、1692年ハノーファー選帝侯に昇格する[2]

オランダのライデン大学及びユトレヒト大学で学び、大変な読書家で、幅広い学問的関心を持ち、巧みな話術を身に付けた人物と評された。カール・モーリッツは発育不全(小人症)だったにもかかわらず、他の兄弟たちと同じように軍務に就くことを望み、認められて1694年プファルツ継承戦争に従軍しフランス軍と戦った。1697年ブランデンブルク=プロイセン軍の陸軍中佐に任官し、1698年には大トルコ戦争に従軍するが、本格的な戦闘には一切加えられずに終わった[3]

ベルリン宮廷では、ゾフィー叔母の娘で2歳年下の従妹であったプロイセン王妃(初め選帝侯夫人)ゾフィー・シャルロッテに気に入られ、王妃から「小さな英雄さん(„kleine Held“)」と呼ばれてその取り巻きとなった。カール・モーリッツは哲学談義の相手や詩作もすらすらこなし、王妃の主宰する芸術家や知識人の集まりである才人の宮廷(ムーゼンホーフドイツ語版)では、主賓としてしばしば招かれたゴットフリート・ライプニッツの前で、宮廷小人英語版の奴隷(„kleinen Sklaven“)の役割を演じた[3]。一方、プロイセン王妃の母ゾフィーは、姪でカール・モーリッツの異母姉であり、フランスに嫁いでいたオルレアン公爵夫人リーゼロッテに宛てた手紙の中で、カール・モーリッツの過度の飲酒癖(アルコール依存症)を嘆いている[2]

カール・モーリッツは1702年、ハノーファーのヘレンハウゼンにて31歳で没した。遺骸はカレンベルク新市街(現在のハノーファー市ミッテ英語版地区)にある聖ヨハン宮廷・市街教会に葬られた。彼の墓石板(Grabplatte)はその後移動され、現在、同教会堂の新市街広場ドイツ語版に面した外壁に墓碑として埋め込まれている[2]

墓碑銘にはラテン語で次のように記されている:「[・・・]彼の死で輝かしい家門が断絶した(„[...] cum quo extincta illustrissima eijus familia“)」。プファルツ=ジンメルン家の正嫡は、カール・モーリッツの異母兄であるプファルツ選帝侯カール2世の死(1685年)に伴いすでに絶えていたが[4]、銘はカール・モーリッツの死で同家の男系男子が最終的に絶えたことを示すものであった。

参考文献

引用・脚注

外部リンク

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