モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ
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モハンマド=バーゲル・ガーリーバーフ(ペルシア語: محمدباقر قالیباف, ラテン文字転写: Mohammad-Bagher Ghalibaf、1961年9月23日 - )は、イランのイスラム革命防衛隊の軍人、政治家。
| モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ محمدباقر قالیباف | |
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2024年 | |
| 生年月日 | 1961年9月23日(64歳) |
| 出生地 | ラザヴィー・ホラーサーン州トルガベ |
| 出身校 | タルビーヤト・モダッレス大学 |
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| 公式サイト | 公式ウェブサイト |
| 在任期間 | 1997年10月30日 - 2000年6月28日 |
| 在任期間 | 2000年6月27日 - 2005年4月4日 |
| 在任期間 | 2005年9月14日 - 2017年8月27日 |
| 当選回数 | 2 |
| 在任期間 | 2020年5月28日 - |
イスラム革命防衛隊空軍司令官(在職1997年-2000年)、内務省警察軍司令官(在職2000年-2005年)、テヘラン市長(在職2005年-2017年)などを経て、現在はイラン・イスラム諮問議会議長(2020年5月 - )を務めている[1]。
2026年イラン戦争におけるアメリカ・イスラエル連合軍の空爆でイラン国家指導層が大量死すると、生き残った幹部として浮上した[1][2]。
日本語メディアでは、モハンマド・バゲル・ガリバフ[3][2][4]、もしくはモハンマドバゲル・ガリバフ[5]と表記される。
経歴
革命防衛隊で昇進
トルガベ出身[1][6][7]。母親はペルシャ系、父親はクルド系の血を引く[8][9]。イスラム自由大学、タルビーヤト・モダッレス大学で学ぶ[7]。
1980年にイスラム革命防衛隊に入隊して、イラン・イラク戦争に従軍[1]。ガーリバーフにとって戦争は出世の階段となり、わずか19歳で指揮官となり、21歳の時にイマーム・レザ旅団司令官[6]、22歳で第5ナスル師団司令官となる[6]。一時イラク軍に占領されたホッラムシャフル奪還作戦で戦功をあげた[4]。
戦後も革命防衛隊に残り[6]、軍用パイロットとしての訓練を積む[4]。1994年にはインフラ計画の管理監督を行うハターム・アル=アンビヤー建設本部司令官に就任した[6][1][10]。
革命防衛隊空軍司令官
1997年から2000年にかけてはイスラム革命防衛隊空軍司令官に就いている[6][1][10]。
1999年イラン学生抗議運動をめぐって、当初穏健な対応を取ろうとしたモハンマド・ハータミー大統領に対して連名で弾圧に乗り出さないなら革命防衛隊が独自に弾圧に乗り出すという脅迫状を送りつけた24人の革命防衛隊上級司令官の一人である[1][10]。
また、2013年にソーシャルメディアで公開された彼の音声によれば、学生抗議運動弾圧の際、彼は、革命防衛隊ゴドス軍司令官ガーセム・ソレイマーニー将軍とともに、街中でオートバイに乗って棍棒を振り回し、自ら抗議者を殴打していたという[2][10][11][1]。
内務省警察軍司令官

2000年から2005年にかけて、内務省警察軍(ニールーイェ・エンテザーミー)司令官を務めた。
2003年の学生運動の弾圧を監督し、支持者からは「死者を出さずに抗議活動を鎮圧した」として賞賛されたが[1]、後に流出音声で判明したところによれば、最高国家安全保障会議事務局長で抗議者への発砲許可を得[11]、実弾使用命令を下していた[1]。
2004年には、ガーリーバーフ指揮下の警察治安部門が改革派ジャーナリストやブロガーを拘束し、被拘束者は秘密拘禁施設で身体的・心理的虐待や長期の独房拘禁を受けたと報じられている[12]。
テヘラン市長

2005年の大統領選挙に落選した後、最高指導者アリー・ハーメネイーの支援でテヘラン市長に就任[10]。2017年まで在職した[1]。
ガーリーバーフはテヘラン市長時代、複数の汚職疑惑を改革派や国外メディアなどにより報じられている。
たとえば、市所有不動産が政府関係者などに市場価格より大幅に安価に売却された疑惑[13][14]、ガーリーバーフとその側近が、2017年大統領選挙の選挙運動に市資金を使用した疑惑、市職員預金基金の運用不正疑惑[15][16]などがある。
イラン国内の国家監査機関によっても、少なくとも200件の市所有不動産が違法に売却されたことは確認されたが、ガーリーバーフ本人の役割や責任についての法的調査結果は公表されておらず、本人も起訴されていない[17]。
イラン・イスラム諮問議会議長

2020年にイラン・イスラム諮問議会議員に選出され、ただちに議長に選出された[1]
2022年、ガーリーバーフの家族がトルコで乳児用品などを購入して帰国したと報じられ、厳しい経済危機下にあるのに、国外で高額な買い物をしたとして批判が巻き起こった[1][18]。この問題は、ソーシャルメディア上で「Layette-gate」や「SismuniGate」と呼ばれた[19][20]。その後、家族によるトルコでの高級マンション購入疑惑も報じられた[21]。
また、ガーリバーフの息子がカナダへの居住申請を行っており、その申請の中で多額の資金を申告していたことも発覚して、激しい批判を買ったが[1]、最高指導者ハーメネイーの支持を得て、強硬派イスラム革命安定戦線が多数を占める議会の中でも議長の座を維持し続けた[1]。
2026年イスラエルとアメリカ合衆国によるイラン攻撃が始まると、イラン指導者の多くが殺害された。停戦交渉が模索される中、ガーリーバーフがイラン側の窓口の一つとして注目されたが、ガーリーバーフ自身はこれを偽情報だとして否定した[22]。しかし、同年4月11日からパキスタンの首都イスラマバードで始まったアメリカとの停戦協議の場にアッバース・アラーグチー外相とともに姿を現し、パキスタンが間に入った間接交渉に参加した[23]。
しかしイラン国内の実権は革命防衛隊司令官アフマド・ヴァヒーディー、最高安全保障委員会事務局長モハンマド・バーゲル・ゾルガドル、最高指導者軍事顧問モフセン・レザーイーら軍部強硬派3人衆が握っているとの見方が支配的であり[24]、アメリカのシンクタンク戦争研究所も、4月18日に、ヴァヒーディーが軍事作戦だけでなく、アメリカとの交渉プロセスも事実上掌握しており、パキスタンで開かれた対米協議代表団を率いたガーリーバーフとアラーグチーには「取引をまとめる完全な権限は与えられていない」と分析している[25]。
大統領選挙
ガーリバフは何度か大統領選挙に出馬している。
2005年の大統領選挙で保守強硬派候補として出馬したが、自らのことを「レジャー・シャーのイスラム版」と称して物議をかもした。皇帝レザー・シャーはイラン近代化を推進した君主だが、世俗的で、その皇子で帝位を継いだモハンマド・レザー・シャーは1979年革命で打倒されているため、革命を冒涜する発言とも捉えられ、強硬派から反発を買い、4位で終わった[1]。
2013年6月のイラン大統領選挙ではマフムード・アフマディーネジャードの後継者となる保守強硬派候補の一人だったが、50%以上の得票を得たハサン・ロウハーニーに敗れた[1]。
2017年の大統領選挙にも立候補し、4月20日、ガーリーバーフのほか、現職のロウハーニー大統領や保守強硬派の対抗候補エブラーヒーム・ライースィーを含む6人の候補者が、正式に選挙参加資格を認められた[26]。しかし選挙日の数日前にガーリーバーフはライースィーを当選させるために大統領選を辞退したものの、アメリカのオバマ政権との間にイラン核合意を成立させ、西側諸国の制裁緩和を取り付けたロウハーニーが再選された[1]。
2024年5月19日にエブラーヒーム・ライースィー大統領がヘリコプター墜落事故で急死したことを受け6月28日に急きょ執行されることとなった大統領選挙に出馬するため、6月3日に立候補届を提出[27]。6月9日には監督者評議会(護憲評議会)による資格審査を通過したことが発表された[28]。第1回目投票ではマスウード・ペゼシュキヤーン、サイード・ジャリーリーに次ぐ、3位にとどまり、決選投票に進めず落選した[1]。