崇実中学、崇実専門、延喜専門などに所属。卒業後は全京城蹴球団(英語版)などでプレーして、1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)のチームの優勝に貢献した。
1939年8月の関東州代表戦で日本代表として初出場[1]し、翌1940年まで日本代表として5試合に出場した。なお、国際Aマッチに該当するのは1940年6月16日のフィリピン代表戦の1試合である。
1946年に現役を引退した後は韓国代表のスタッフなどを歴任し、優勝した1956年アジアカップではコーチを務めた[2]。
その後、アメリカ合衆国に移住したが、1984年に交通事故で死去した。