キャンプ・チッカマウガ

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種類旧在日米軍キャンプ地
使用期間1946-1957
キャンプ・チッカマウガ
Camp Chickamauga
旧FAC5055
大分県別府市
GHQ文書における米軍キャンプ配置図
種類旧在日米軍キャンプ地
歴史
使用期間1946-1957

座標: 北緯33度16分56秒 東経131度29分21秒 / 北緯33.282267度 東経131.489271度 / 33.282267; 131.489271 キャンプ・チッカマウガ英語: Camp Chickamauga)は、かつて大分県別府市大字野口原周辺に存在した東西:約1.92km、南北:約1.19km、面積:436,638平方メートルの在日米軍、米陸軍キャンプ地の名称である。

キャンプ・チッカマウガ全体の3D復元図

日本国の公文書では、キャンプ・チカマウガと記載されることが多い。

  • 旧JPNR3543(特別調達庁施設管理番号※廃番)
  • 旧FAC5055(在日米軍施設管理番号※廃番)

第二次世界大戦後の1946年12月15日(昭和21年)から1957年10月14日(昭和32年)までの期間、アメリカ陸軍第24歩兵師団 第19歩兵連隊英語版第187空挺連隊英語版第508空挺連隊英語版が交代で駐留した。

GHQによる接収解除後は、陸上自衛隊西部方面隊第3特科群が同地に米軍駐留時代の施設をほぼ流用する形で駐屯した。

駐屯地の別府市大字鶴見への移転に伴い、同地は別府市へ返還。キャンプ・チッカマウガ兵舎地区は、別府公園として再整備された。

キャンプ・チッカマウガの由来

本キャンプ開設時、別府市に駐留した米第24歩兵師団 (アメリカ軍)第19歩兵連隊の愛称が「The Rock of Chickamauga」であったため。
また、第24歩兵師団 (アメリカ軍)の祖、米南北戦争時の北軍将軍ジョージ・ヘンリー・トーマスは、ジョージア州における激戦『チカマウガの戦い』で英雄的守備を完遂したことから、「Rock of Chickamauga」と呼称されている。

キャンプ地の概要

キャンプ・チッカマウガ司令部は、JR九州別府駅の西北西約1,000mの現別府公園内に存在した。

敷地内は、概ね3つの区画に分かれており、司令部がある兵舎地区、富士見通り(県道645号線)より北側が技術隊地区、北西部が将校および下士官の住宅地区であった。 富士見通りは、1947年(昭和22年)から2か所のゲートで仕切られた(接収後期は、時限開放された)。

建築物総数は、大小合わせて200棟以上の施設規模。兵員収容設計規模約3,000名(キャンプ開設時)。

キャンプ・チッカマウガ全体の平面図(現代道路を投影)
区画ごとの主要な施設
  • 兵舎地区(Troop Housing Area)
    • 司令部(Headquarter)施設×2棟(補給部S1 - S4を含む)
    • PX(Post Exchange)酒保・売店施設×2棟
    • 大隊本部×3棟
    • 来賓宿舎(Green Club)×1棟
    • 赤十字・図書館×1棟
    • ソフトボール場×1面
    • テニスコート×2面
    • バレーボールコート×4面
    • バスケットボールコート×1面(冬期は屋外スケート場)
    • フットボール場×1面(チャップマン・フィールド)※現在のビーコンプラザ
    • ボーリング場×1棟(RAKKASAN CLUB(第187空挺連隊時代のクラブハウス)を含む)
    • 下級兵士用宿舎×18棟
    • 下級兵士用宿舎付属棟×18棟
    • MP STATION棟×1棟(第187空挺連隊駐留以降)
    • MP STATION付属棟×1棟(第187空挺連隊駐留以降)
キャンプ・チッカマウガ兵舎地区の平面図(現代道路を投影)
  • 技術隊地区(Post Engineer・Post Motor Pool Area)
    • 教会×1棟
    • 郵便局×1棟
    • 診療所×1棟
    • 消防詰所×2棟
    • パレードグラウンド・野球場(旧別府競馬場)×1面 ※現在の野口原総合運動場
    • 体育館×1棟
    • プール×1面
    • 将校クラブ(兼、食堂)×1棟
    • 独身下士官宿舎BOQ(集合住宅)×9棟
    • 特別電話局施設×4棟
    • 変電所施設×2棟
    • 技術隊施設(溶接・木工・塗装・ボイラー管理用工作棟・冷凍倉庫等)×30棟
    • 日本人従業員住宅×4棟
    • 洗濯・クリーニング施設×3棟
    • メイドハウス×1棟
キャンプ・チッカマウガ技術隊地区の平面図(現代道路を投影)
  • 住宅地区(Dependent Housing Area)
    • 将校および下士官子息用小学校・司令部別棟(接収した旧鶴見園本館)×1棟
    • 映画館兼劇場(接収した旧鶴見園の大劇場)×1棟
    • プール(接収した旧鶴見園の温泉プール)×1面
    • ソフトボール場×1面
    • テニスコート×1面
    • 将校宿舎(一戸建て住宅)×28棟
    • 下士官宿舎(集合住宅)×19棟 ※2世帯タイプと4世帯タイプあり
    • 下士官クラブ(兼食堂)×1棟
    • 土産物屋×1棟
    • 美容院×1棟
    • 給油所×1棟
キャンプ・チッカマウガ住宅地区の平面図(現代道路を投影)

将校宿舎および下士官宿舎の設計様式は、GHQ仕様書「DEPENDENTS HOUSING」による共通仕様。

兵舎地区に第1ボイラー施設、住宅地区に第2ボイラー施設が整備されており、鮎返ダム水利による上水道完全給湯。日本国内の米軍施設としては贅沢な設備であった[要出典]

駐留した部隊

別府に駐留した米軍一覧

歴史

  • 1945年(昭和20年)10月13日[2] - 占領軍先遣隊コリンズ司令官(中佐)ら300名、列車で大分に進駐。※第5海兵師団、第5戦車大隊が元陸軍大分少年飛行兵学校の兵舎に入る。
  • 1946年(昭和21年)年3月 - 別府市公会堂(現、別府市中央公民館)に「占領軍工事大分地区兵舎宿舎建設本部」が設けられた[3]
5月 - 大分占領軍は、米陸軍第24歩兵師団第19歩兵連隊に交代[4]
5月 - キャンプ地の工事着工[5]
7月 - 米軍キャンプ地の水源として朝見地区に鮎返ダム(満水貯水量6万トン)の建設開始。キャンプ地の野口原まで上水道導水路建設開始[6]

※需要3,000人分の設計。
※鮎返ダム施工は、星野組

7月14日 - 占領軍キャンプ各種施設(将校・下士官住宅、兵舎)の建設が始まる[7]。大分県知事細田徳寿、米軍責任者フランシス・バーナー中尉、梅林時雄建設本部長(梅林土木:現梅林建設)の鍬入れで起工式を行なった。最盛期には、約160社が工事に関わった。ジョイント・ベンチャー方式(JV工事)の走りである。
キャンプ・チッカマウガ建設に関わる施工体系図[8]
11月 - 兵舎完成[9]
12月15日 - 兵舎が完成、第24歩兵師団第19歩兵連隊本体が高知市より別府市に移駐し、キャンプ・チッカマウガ開設[10]
  • 1947年(昭和23年)3月 - 宿舎第一期工事完成[11]
3月 - 鮎返ダム竣工[12]
6月 - 宿舎第二期工事完成[13]
  • 1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。
  • 1951年(昭和26年)6月 - 第187空挺連隊が第19歩兵連隊と交代し、駐留開始[14]
  • 1953年(昭和28年)7月27日 - 朝鮮戦争休戦。
  • 1954年(昭和29年)7月5日 - 日米合同協議会の決定により、付近の学生の登下校のため、富士見通り(県道645号線)の第2ゲート(西側)および第10ゲート(東側)が時限開放された[15]
  • 1955年(昭和30年)7月13日 - 第508空挺連隊が第187空挺連隊から交代し、駐留開始[16]
  • 1956年(昭和31年)7月6日 - 第508空挺連隊本隊が第一次撤退をはじめる[17]
7月12日 - 第508空挺連隊司令部引き揚げ[18]
  • 1957年(昭和32年)3月25日 - 米軍による接収解除[19]
12月17日 - 陸上自衛隊西部方面隊第3特科群久留米駐屯地から移駐し、元キャンプ・チッカマウガは陸上自衛隊別府駐屯地として姿を変えた[20]
  • 1978年(昭和53年)8月 - 陸上自衛隊別府駐屯地は別府市大字鶴見に移転[21]

脚注

関連項目

参考文献

外部リンク

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