ギヨーム (ムラン副伯)
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ギヨーム・ル・シャルパンティエ | |
|---|---|
| 在位 | 1087年 – 1102年頃に活躍 |
| 称号 | ムラン副伯 |
| 父親 | ウルシオ(推定) |
| テンプレートを表示 | |
ギヨーム・ル・シャルパンティエ(仏語:Guillaume le Charpentier、活動時期:1087年–1102年)とは、11世紀から12世紀に活躍したムラン家(フランス語版)出身のムラン副伯であり、イベリア半島におけるレコンキスタおよび第1回十字軍に参加したことで知られている。彼はスペイン遠征および十字軍の双方において軍を離脱したことで悪名高かったが、一方で戦闘における剛力でも知られ、そのため「シャルパンティエ(大工)」の渾名を得た。彼は十字軍後に再び聖地へ戻ったが、その後の生涯や死については何も分かっていない。
継承

ギヨームの正確な出自は不明である。17世紀の系譜学者ペール・アンセルム(英語版)によれば、彼はムラン副伯ウルシオ1世(Ursio I)の子であったという。ムランはパリの外側約50キロメートルに位置する町で、ブリー地方のヴェクサンに属しており、後にイル=ド=フランスとして知られる地域である。アンセルムは、ギヨームが1084年に父の後を継ぎ、のちに彼自身の息子ウルシオ2世(Ursio II)が副伯職を継承したと考えていた[1]。しかし19世紀になると、アドルフ・デュシャレ(Adolphe Duchalais)が、アンセルムが利用していた憲章文書を誤読していたことを明らかにした。確実に分かっているのは、ウルシオが1085年に副伯であり、ギヨームが1094年に副伯であったという点のみである。ウルシオ2世の存在を示す確定的な記録は存在せず、ギヨームの後には、1138年に前代の名不詳の副伯の娘と結婚したアダン(Adam)が現れるまで、副伯は確認されていない。ギヨームがウルシオと血縁関係にあったことはほぼ確実であるが、彼と他の副伯たちとの具体的な関係は不明である[2]。
12世紀の年代記作者修道士ロベール(英語版)によれば、ギヨームは「王族の血を引く者」であり、ヴェルマンドワ伯ユーグ1世およびその兄であるフランス王フィリップ1世と親族関係にあったとされている[3]。
軍事活動
12世紀の修道士ノジャンのギベール(英語版)によれば、ギヨームは「言葉においては力強いが、行動においてはそれほどでもない……自分にはあまりに大きすぎることを成そうとした人物」であったという[4]。ギヨームは、1087年にスペイン遠征を敢行したフランス軍の一員であり、カスティーリャ王アルフォンソ6世を支援して、トゥデラ包囲戦(英語版)においてアルモハド朝と戦った。彼は、アルフォンソの妃であるコンスタンサ・デ・ボルゴーニャの甥であったブルゴーニュ公ウード1世とともに、遠征軍団指揮官の1人として指揮を担っていた可能性がある。しかしフランス軍はトゥデラに到達することなく撤退し、ほとんど成果を挙げなかった[5][6]。ギベールは、ギヨームが「卑劣者のように退却し、無数の兵士たちを見捨て逃げ去った」と述べている[7]。スペインにおけるギヨームの行動は、12世紀初頭に成立した可能性のある叙事詩『ローランの歌』に登場する人物ガヌロン(英語版)の着想源となった可能性がある。この叙事詩は、数世紀前のシャルルマーニュの治世下で起きた類似の出来事をもとにしている[8]。
フランス国内において、ギベールは、ギヨームが他の貴族に対する小規模な私闘や、農村地帯における「犯罪的略奪」に従事していたと記しており、これは神の平和運動と神の休戦(英語版)に反する行為であった。1096年には、彼は第1回十字軍に参加し、「貧しい隣人たちから、彼らが持っていたわずかな物を奪い、恥ずべき形で旅のための糧を整えた」という[7]。彼は、マインツにおいてエミコ・フォン・フロンハイム(英語版)が率いた軍により引き起こされたユダヤ人虐殺事件(英語版)にも関与した[9]。その後、エミコの軍はハンガリー王国の軍と戦闘を行い、その際ギヨームは「ハンガリー軍の長を斬首した。その人物は[ハンガリー王カールマーン]の評議会の一員であり、まばゆいほど雪のように白い髪をした高名な人物であった」[10]。この戦闘の後、エミコ軍が解散すると、ギヨームと他のフランス人指導者たちは、彼の親族であるヴェルマンドワ伯ユーグ1世の軍に合流した[11]。ユーグの軍はイタリアへ南下し、バーリにおいて、ユーグはギヨームを海路でデュッラキウム(英語版)へ派遣し、同市のビザンツ帝国総督への使節とした[12]。その後ギヨームはユーグとともにコンスタンティノープルへ赴き、同年後半にゴドフロワ・ド・ブイヨンが同市に到着した際に出迎えたという[13]。
それから1098年のアンティオキア包囲戦まで、ギヨームについての記録は途絶える。十字軍は都市の占領に成功したものの、直後にモースル統治者ケルボガが率いる大規模なイスラーム軍に包囲された。補給不足により多くの脱走者が出る中、ギヨームは1098年1月、フランス人修道士隠者ピエールとともにアンティオキアから逃亡した。ピエールは、主力の十字軍が到着する以前に自らの軍を率いてコンスタンティノープルへ向かっていた人物である。当時ギヨームは、ターラント公ボエモンの軍に属していた可能性が高い。というのも、ボエモンが甥であるタンクレードを派遣して彼らを捜索させ、二人はボエモンの陣営へ連れ戻されたとする記録が残されているためである[14]。修道士ロベールは、ギヨームが逃亡した理由を「これほどの飢えの苦しみをそれまで経験したことがなかったからだ」と推測している[15]。ギヨームは一晩中「悪しき者のように」(uti mala res)ボエモンの天幕に横たわっていたという[16]。ボエモンは彼を「フランク軍全体にとっての卑劣な恥辱」と叱責し、1087年にスペインでフランス軍を見捨てたことにも言及した。他の指導者たちはボエモンに助命を求め、ギヨームはそれ以上の処罰を受けなかった。しかし彼は深い恥を感じ、再び軍を脱走した[17]。
アルベルト・フォン・アーヘン(英語版)によれば、ギヨームの二度目の脱走は1098年6月に起こり、ボエモンの親族であるギヨーム・ド・グラン=メニル(William of Grand-Mesnil)と行動を共にしていた。彼らはアンティオキアを離れる途上で、同じく包囲戦から逃亡していた十字軍指導者ブロワ伯エティエンヌ・アンリと合流した。一行はコンスタンティノープルへ向かったが、その途中で救援軍を率いてアンティオキアへ進軍中であった東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスと遭遇した。彼らは十字軍の包囲が無益であると皇帝に説得し、皇帝は軍を返してコンスタンティノープルへ引き返した[18]。
その後ギヨームは、1101年の十字軍に参加し聖地へ戻ったと考えられている。第1回十字軍はすでにエルサレムの征服に成功しており、道半ばで帰国した者たちは、しばしば二度目の十字軍に参加するよう恥辱によって駆り立てられた。その中には、ブロワ伯エティエンヌのように、二度目の遠征で命を落とした者もいた[19]。しかしギヨームは生き延び、新たに成立したエルサレム王国の政治に関与した。彼は、エルサレム王ボードゥアン1世に対し、ピサのダイムベルト(英語版)をエルサレム・ラテン総大司教(英語版)に復帰させるよう請願した人々の一人であった。また、1102年に行われたボードゥアン1世主導のアスカロン包囲戦(英語版)にも立ち会っている。[20] ギヨームは北方、すなわちアンティオキア公国に定住し、ボエモンの封臣となった可能性がある。というのも、彼は1101年のアンティオキアの勅許状に証人として名を連ねているからである[21]。
渾名
アンティオキア包囲戦におけるギヨームの行動は、イタロ=ノルマン人(英語版)の目撃者によって記された匿名の年代記『フランク人の事績(英語版)』(Gesta Francorum)によって知られている。『事績』は十字軍後のヨーロッパで非常に広く読まれたが、より洗練された読者からは粗野な文体であると見なされていた。その後、この年代記は、フランス人修道士であるロベールおよびギベールを含む、より教養ある著述家たちによって書き直され、拡充された。彼らはいずれも、ギヨームのようなフランス人十字軍参加者についての情報を付け加えることに熱心であった。
ロベールによれば、ギヨームが「『大工(英語でカーペンター、仏語ではシャルパンティエ)』という渾名を得たのは、誰も彼と戦おうとしなかったからであり、彼の槍や剣の粉砕的な一撃に耐えられる胸甲、兜、あるいは盾が存在しなかったためである」という[22] 。またギベールは、彼が「木工職人であったからではなく、大工のように人々を切り倒すことで戦場において勝利を収めたために『大工』と呼ばれた」と述べ、さらにボエモンに次のように語らせている。「我々が抱えていた大工とは一体何者であったのか。つるはしを持つ土木作業員のように、異教徒たちの背中を、槍や剣で切り裂いていったのだから」。[23]。クリストファー・タイアマン(英語版)は、これをギヨームの「戦場における屠殺者としての技能」と解釈している[24]。エドワード・ギボンは、ギベールの記述を誤解したらしく、この渾名が「彼の戦斧の重い打撃に由来するもの」と考えていた[25]。
脚注
- ↑ Anselme de Sainte-Marie, Histoire Généalogique et Chronologique de la Maison Royale de France, des Pairs, Grands Officiers de la Couronne et de la Maison du Roy et des anciens Barons du Royaume (Reproduction de l'éd. de Paris: chez Estienne Loyson, 1674: Num. BNF de l'éd. de Paris: Bibliothèque Nationale de France, 1987. 1 microfilm Reproduction de l'éd. de Paris: Compagnie des libraires associés, 1730); vol. 5, 「Généalogie de la Maison de Melun」, p. 221.
- ↑ Duchalais, Adolphe 「Charte inedité de l'an 1138, relative à l'histoire des vicomtes de Melun」 (Bibliothèque de l’école des chartes; vol. 6 no. 6, 1845), pp. 253–255.
- ↑ Sweetenham, Carol (tr.) (2005) Robert the Monk's History of the First Crusade = Historia Iherosolimitana. Aldershot: Ashgate; iv.XII, p. 128.
- ↑ Guibert of Nogent; Levine, Robert (tr.) (1997) The Deeds of God Through the Franks. Woodbridge: Boydell Press; bk. iv, p. 79.
- ↑ Reilly, Bernard F. (1988) The Kingdom of León-Castilla under King Alfonso VI, 1065–1109. Princeton University Press; p. 191.
- ↑ Riley-Smith, Jonathan (1997) The First Crusaders, 1095–1131. Cambridge University Press; p. 43.
- 1 2 Guibert of Nogent (1997), p. 79.
- ↑ Defourneaux, Marcelin (1949) Les Français en Espagne aux XIe et XIIe siècles. Paris: Presses universitaires de France; p. 269.
- ↑ Riley-Smith, Jonathan (2005) The Crusades: a history, 2nd ed. New Haven: Yale University Press, p. 28.
- ↑ アルベルト・フォン・アーヘン(英語版); Edgington, Susan B. (ed. & tr.) (2007) Historia Ierosolimitana. Oxford University Press; I.29, p. 55.
- ↑ Riley-Smith, The Crusades, p. 28.
- ↑ スティーヴン・ランシマン (1951) A History of the Crusades, vol. I: The First Crusade. London: Folio Society, 1994, p. 120(初版 Cambridge University Press, 1951)。ランシマンの記述はアンナ・コムネナに基づいており、彼女はギヨームをフランス語の渾名をギリシア語化した「ツェルペンタリオス(Tzerpentarios)」と呼んでいる。Anna Comnena; Sewter, E. R. A. (tr.) (1969) アレクシアス(Alexiad). Penguin, p. 314.
- ↑ Albert of Aachen (2007), II.9, p. 75.
- ↑ Thomas Asbridge (2004) The First Crusade: A New History. Oxford University Press; pp. 178–179.
- ↑ Robert the Monk (2005), p. 128.
- ↑ Dingler, J. B. C. (1866). J. B. C. Dingler. ed. Recueil des historiens des croisades. Historiens occidentaux, tome 3. Paris: Imprimerie Royale. pp. 111–112. オリジナルの2026-02-11時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20260211000000/https://archive.org/details/RecueilDesHistoriensDesCroisadesOccidentaux3 2026年2月11日閲覧。
- ↑ Hill, Rosalind T. (ed. and trans.) (1967) フランク人の事績(英語版): the Deeds of the Franks and the Other Pilgrims to Jerusalem. London: Oxford University Press; pp. 33–34. アウグストゥス・C・クレイ(英語版)による英訳は、The First Crusade: the accounts of eyewitnesses and participants(Princeton, 1921, pp. 136–139)としてen:Internet Medieval Sourcebookに掲載されている。「The Sufferings of the Crusaders – 3. The Gesta Version」。ギベールはロベールほど寛容ではなかったが、彼もまた、ギヨームの二度目の逃亡理由を飢餓であったとしている(Guibert of Nogent (1997), p. 81)。
- ↑ Albert of Aachen (2007), iv.39–40, pp. 311–313.
- ↑ Riley-Smith, Jonathan (1986) The First Crusade and the Idea of Crusading. Philadelphia: University of Pennsylvania Press; p. 120.
- ↑ Albert of Aachen, ix.14–15, p. 655.
- ↑ Riley-Smith (1986), p. 72. この勅許状はラインホルト・レールヒト(英語版)の Regesta Regni Hierosolimitani に収録されており、no. 35, p. 5 に掲載されている。
- ↑ Robert the Monk, pp. 127–128.
- ↑ Guibert of Nogent, p. 80.
- ↑ Tyerman, Christopher (2006) God's War: a new history of the Crusades. London: Penguin Books; p. 87.
- ↑ エドワード・ギボン; David Womersley (ed.) (1996) ローマ帝国衰亡史(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire), vol. 3, Chapter LVIII, p. 598.