クウン・ブカ
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クウン・ブカが始めて史書に登場するのは1232年のオゴデイ・カアンによる金朝征服の時で、当初クウン・ブカはオゴデイ自ら率いる中軍に所属して潞州・鳳翔府の攻略に参加していた[1]。しかし西方から進軍していたトルイ率いる右翼軍が金軍の主力と相対するにおよび、オゴデイはベルグテイ家のクウン・ブカ、カサル家のアルチダイ、ジャライル国王家のタスを援軍として派遣し、クウン・ブカらは三峰山においてトルイ率いる右翼軍と合流した[2]。クウン・ブカらの援軍を迎えたトルイは20万人とも称される金軍の主力を三峰山の戦いにおいて撃ち破り、モンゴル軍の勝利を決定づけた[3]。
金朝の攻略後、新たに領土を接するようになった南宋に対し、オゴデイ・カアンは自らの息子のクチュを総司令とする遠征軍を派遣することを決定した。クウン・ブカもまたこの遠征軍に所属していたものの、遠征が始まってまもなクチュが急死してしまったため、クウン・ブカはタングート人のチャガンとともに遠征軍を指揮しなければならなくなった。1235年には棗陽および光化軍を攻略し、南宋の何太尉を捕らえるという功績を挙げた[4]。一時クウン・ブカがカアンの下に帰った時には、チャガンに南宋方面軍の指揮を委ねている[5]。
1237年には再び南宋領へ南下し、クウン・ブカはチャガンおよびジャライル国王家のタスとともに光州を攻囲した。オゴデイ・カアンは華北の史天沢ら漢人軍閥にも協力を要請したため、史天沢らは光州の外城を破り[6]、遂に光州を攻略した[7][8]。光州の攻略後、クウン・ブカはタスらとは別行動をとって更に南下し、光州の南に位置する黄州まで攻め入った[9]。クウン・ブカが黄州まで至ったところでモンゴル軍の南下を恐れた南宋との講和が成立し、クウン・ブカらモンゴル軍は帰還した[10]。
『元史』の列伝には後に元朝に仕える高官となった漢人官僚(蔡珍・高觿)の父祖がクウン・ブカの南宋遠征に参加していたことが記録されている[11][12]。1237年の南宋戦を最後にクウン・ブカは史料に登場しなくなり、その後の動向は不明である。後にクビライ・カアンと張徳輝が問答した際、張徳輝は宗室中の賢人であるクウン・ブカのような人物に兵権を任せるの良いでしょう、と語っている[13]。