クラウス・シリング
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1871年、ミュンヘンにて生を受ける。1898年からはベルリン大学のロベルト・コッホに師事し、マラリアに関する研究を行った。トーゴおよびドイツ領東アフリカで医師として勤務した後、ロベルト・コッホ研究所にて熱帯医学部長に選ばれる。1920年代、シリングはイタリアおよびベルリンの病院で精神病患者に対する血清学的実験を行った。1936年には教授(Professor)となり、以後定年まで務めた[1]。1941年11月、ローマにて全国健康指導者レオナルド・コンティと会談し、ハインリヒ・ヒムラーSS長官がダッハウ強制収容所にてマラリア研究を継続するように求めている旨を伝えられた。
1942年2月、シリングはダッハウ収容所内でマラリア治療に関する研究に着手した[2]。彼はマラリア治療に関する研究を行う為、マラリア原虫を持つ蚊に晒したり、あるいは唾液腺に直接原虫を注射することで人為的に収容者らにマラリアを発症させていた。こうした非人道的な人体実験に利用された収容者は1,000人以上になると言われている[3]。彼が開発した合成マラリア治療薬「ボーリンガー2516」(Boehringer 2516)の効果も収容者らを利用して確かめられた。当初はポーランド出身の聖職者らが実験体として使用され、後にはイタリア人やロシア人も使われた。人体実験による直接の死者は30名程度で、その後の影響による死者は300人から400人程度であった。人体実験は複数回行われたが、ヒムラーの直接の命令による実験は1945年4月5日の1度のみだった[2][4]。シリングの助手医師は1943年4月頃までルドルフ・ブラヒテルが務めていたが、その後1944年半ばまではクルト・プレトナーが務めた[1]。

敗戦後の1945年11月15日、シリングはダッハウ主要裁判の中でその他の39人の被告とともに起訴を受けた。1945年12月13日、シリングの死刑が確定する。判決の中で、彼はマラリアに関する擬似医療的実験とその全ての犠牲者について責任を負うものとされた[5]。ノーベル化学賞受賞者のハインリッヒ・ヴィーラントは、1945年12月31日に発表した個人的な声明の中でシリングの死刑判決に言及し、「彼(シリング)は真の研究者として、情熱を注いで科学的目標を追求しているという印象を受けた。彼は、反対していた党と協力することは、大義の為に払わなければならない大きな犠牲を意味する事を、私には隠していなかった。」と述べた。 ロベルト・コッホ研究所とベルンハルト・ノヒト研究所の同僚から、シリングのために恩赦を求める嘆願書が提出された。シリングのための恩赦請願書では、彼の科学的名声、科学への貢献、非政治的な態度、非の打ちどころのない行動に言及されていた。いくつかの恩赦請願書には、シリングは熱心な研究者であり、一連の実験で被験者の死を意図的に計画したのではなく、むしろ人々の命を救いたいと考えていたと記されている[6]。
1946年5月28日、ランツベルク戦犯収容所にてクラウス・シリングの絞首刑が執行された[7]。
