クラーラ・エリーザベト・フォン・プラーテン
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ゲオルク・フィリップ・フォン・マイゼンブーク(1620年 - 1669年)と妻アンナ・エリーザベト・フォン・マイゼンブーク(1625年 - 1680年)の長女。父は高望みしてクラーラと妹カタリーナ・マリアをヴェルサイユ宮廷に送り込んで役職なり良縁なりを得させようとしたが、失敗に終わった。野心を挫かれたフランス帰りのクラーラは、当時はカレンベルク侯と称したエルンスト・アウグストの宮廷に伺候し、侯夫人ゾフィー・フォン・デア・プファルツの女官の職を得る。1672年頃に侯と男女の関係になり、侯の妾として大きな権勢を得た。エルンスト・アウグストとの間には1男1女が生まれている。
- エルンスト・アウグスト・フォン・プラーテン(1674年 - 1726年) - 1697年侯家の子女養育係・侯夫人女官長アンナ・カタリーナ・フォン・オッフェンの姪で異母兄ゲオルク・ルートヴィヒ侯世子の妾だったゾフィア・カロリーネ・フォン・オッフェン(1669年 - 1726年)と結婚[4]、プラーテン=ハラームント家(Platen-Hallermund)の始祖
- ゾフィア・シャルロッテ・フォン・プラーテン (1675年 - 1725年) - 1701年異母兄ゲオルク・ルートヴィヒ侯世子の侍従ヨハン・アドルフ・フォン・キールマンスエッグと結婚、異母兄のイギリス王即位後にリンスター女伯爵・ダーリントン女伯爵に叙爵
1673年9月に侯の子息たちの養育係フランツ・エルンスト・フォン・プラーテンとヒルデスハイムで結婚し、侯とクラーラの間の2人の非嫡出子はこの夫の子として認知された。夫もクラーラの影響力のおかげで目覚ましい出世を遂げ、侯国宰相に就き伯爵に叙せられた。クラーラの2人の子供の父親がエルンスト・アウグストであることは宮廷では公然の秘密だったため、腹違いの兄弟であるカレンベルク侯夫妻の子供たちはクラーラの子を本物の兄弟として扱った。クラーラの妹カタリーナ・マリアは、侯世子ゲオルク・ルートヴィヒが1682年正妃ゾフィー・ドロテアを迎えるまで世子と男女の関係にあった。
エルンスト・アウグストはクラーラに不動産収入を得させるため、宿屋「ケーニヒ・フォン・ハノーファー」を建設して与えている[5]。
クラーラが侯の寵愛を笠に着て様々な利得を引き出し、ハノーファー宮廷の最も権勢ある女主人として振舞ったことで、侯家は絶え間ない家庭内不和に陥った。1688年、侯世子の配下にフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵が加わると、クラーラはこの17歳の瑞々しい美青年に魅了された。クラーラとケーニヒスマルクが性的関係を結んだかどうかは分かっていない。1694年クラーラは自分の娘ゾフィア・ドロテアとケーニヒスマルクを結婚させようとしたが、そこで彼女は1692年3月以降ケーニヒスマルクが侯世子夫人ゾフィー・ドロテアと男女の関係になっていることを知った。クラーラはこれに怒り、侯世子に夫人の姦通とケーニヒスマルクの不忠を暴露した。こうしていわゆるケーニヒスマルク事件が発生し、ケーニヒスマルクは消息不明となり、ゾフィー・ドロテアは残りの長い人生をアールデン城に幽閉されて過ごすことになる。
クラーラの死後、彼女が死の床で行ったケーニヒスマルク事件に関する独白録の写しが出回った。この独白録で彼女は自分はケーニヒスマルクの死に関して共犯であるとしている。独白録の原本は散佚してしまった[6]。
