クリスティアン・ヴェルナー
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経歴
1911年12月15日にダイムラー社に整備士兼運転手として働き始める[W 1]。その後、最終検査部門でマスタードライバーに認定された[W 1]。
レーシングドライバー
第一次世界大戦後の1920年代になって同社のワークスドライバーとしてレースに参戦するようになる[W 1]。

1922年タルガ・フローリオの頃にはメルセデスチームのエースと目され[1]、このレースではスーパーチャージャーを搭載したメルセデスを駆って8位でチェッカーを受けた[2]。1923年にはインディ500にも参戦して、完走を果たす[3]。

インディ500で使用した車両は翌1924年のタルガ・フローリオでも使用されることになり、同時に開催されたコッパ・フローリオとともに、ヴェルナーは両レースで優勝した[1][4]。この「完全勝利」はダイムラーにとって「敵地」であるイタリアで挙げたものであり、同社にとって大きな勝利となる。
この時期にダイムラーに入社した新人ルドルフ・カラツィオラがレースチームへの加入を希望し、ヴェルナーはそのトライアルとなる走行の監督を務め、結果、その走りを高く評価した[5]。1928年のドイツグランプリ(ニュルブルクリンク)では、そのカラツィオラとメルセデス・ベンツ・SS(W06)のステアリングを共有し、優勝する[5]。
青いオーバーオールを着た背の高いやせた男が現われた。ヴェルナー氏であった。(中略)彼の長い悲しそうな顔には大きな鼻とくぼんだ目がついており、決して笑うことがないような印象をうけた。[5]
—ルドルフ・カラツィオラ(1923年6月)[注釈 1]
ヴェルナーはヒルクライムレースでも活躍し、1925年に開催された第1回フライブルク-シャウインスラントヒルクライムレース(1984年まで続く伝統のレースとなる)で優勝し、1927年までに3連覇を果たした[1]。
1928年ドイツGP
1928年ドイツグランプリの勝利もまた、ヴェルナーのレースでよく知られるもののひとつである。
ニュルブルクリンクで開催されたこのレースは事故による死亡者や負傷者が続出した激しいものとなった。ヴェルナーも顔にかかったオイルで目を傷めたことと、あまりにも固いステアリングによって肩を脱臼してしまったため、レース途中でピットインして自身の車をヴィリー・ウォルブに譲る事態となっていた[6]。ヴェルナーが肩の手当てをしていると、カラツィオラもピットインしてきて、カラツィオラは酷暑のレースで異常過熱したペダルによって足の裏をやけどしたことと、熱中症が疑われたことで一時離脱することを余儀なくされた[6][W 2]。ここで、チーム監督であるアルフレート・ノイバウアーが賞金を交渉材料としてヴェルナーを説き伏せ、ヴェルナーはカラツィオラの車を引き継いでレースに復帰することを承諾した[6]。負傷した肩を吊った状態のヴェルナーは怪我を負ったカラツィオラと交代しつつ走り切って優勝し[6][W 2]、このレースでメルセデスチームは表彰台を独占するとともに、1926年の第1回大会からこの第3回大会まで、ドイツグランプリの3連覇を達成した[W 2][注釈 2]。
死去
1929年の世界恐慌の影響によりダイムラー・ベンツはレース活動を縮小していき、ヴェルナーには他社からの引き抜きの声がかかるようになった。しかし、ヴェルナーはそれらを断り同社に留まった。そんな折、1932年に喉頭癌により死去した[7]。
レース戦績
インディアナポリス500
| 年 | シャシー | エンジン | スタート | フィニッシュ |
|---|---|---|---|---|
| 1923年 | メルセデス | メルセデス | 15 | 11 |
ル・マン24時間レース
| 年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1930年 | メルセデス・ベンツ・SS | 8.0 | 85 | DNF | DNF |